地球のステージスタッフによる日誌です。その日の公演の様子や、なにげない毎日の様子をお伝えしていきます。
みなさんどんどんコメントをお寄せください。ステージに関すること、広く伝えたいことなど書き込んで、つながりの輪を広げていきましょう。

今日は閖上

2016.09.28 Wednesday

今日は朝から名取でした。

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 「閖上の記憶」は火曜日だからお休み。でもそこで懐かしい人と会い、是非今後語り部としてデビューして頂きたいとお話しできました。

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 これからもたくさんの皆さんが、心の堰を切ってここで語り、自分の心の整理に役立てていっていただきたいと思いました。

 午後からは閖上のすぐ横の袋原中学校で3年目のステージ。みんな落ち着いてよく聴いてくれました。挨拶もちゃんとするし、本当にやりやすい学校。でも生徒さんの中には元々閖上に住んでいらっしゃった人も相当数いるはずです。今日は「6年目の津波篇」なので、結構直接的な内容でしたが、彼ら彼女らにどう伝わったのか、気になるところでした。

 そしてまた400キロを走り海老名に戻りました。

 ふしぎと全然疲れないこの行程。これからも少なくとも月1で名取に戻ります。

 

桑山紀彦

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ミャンマーの終わりに

2016.09.23 Friday

今回全行程を通訳者として同行してくれたのが、タンナインさんです。

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 前回もヤンゴン周辺での仕事をお願いした経緯で、今回は全行程を共に過ごしました。

 日本語も達者ですが、何よりその家族や親戚知人に広い人脈がいることがすごい人です。

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 まず奥様は中学校の理科の先生ですが、軍政時代にJICAの研修員として日本の福岡に滞在したことがある強者です。軍政時代はこういった動きは厳しく制限されていたので、奥様は学校が休みに入る4月、5月に軍政には内緒で出かけたという強い向学心の教師です。

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 それからタンナインさんの兄は現在空軍で仕事をしていますが、その一人娘がシュン・レイ・オーさん。23歳の彼女は現在ヤンゴン医科大学の6年生です。今のミャンマーには5つしか医学部がありませんがヤンゴン医科大学はその中でも最高難度の国立医学部です。しかもこのミャンマーにおいても女子の方が成績が優秀であるため、同じ500点で合格を決めてしまうと女子ばかりになってしまうということで、なんと男子は500点、女子は525点で医学部入学が可能になるという「差別」に立ち向かって見事合格した才女です。

 英語が抜群にうまく、バリバリの会話ができてしまうオーさんだけど、実は医者になりたいと思ったのはとても大切な動機からでした。

「私の妹はダウン症として生まれました。でも本当にかわいくて、私は妹が大好きでした。優しくて愛くるしい。障がいがあっても本当に素敵な妹でした。でも、多くのダウン症の人がそうであるように長く生きることはできず、心臓の疾患で亡くなってしまいました。

 本当に哀しくて、私はそんな妹のような素晴らしい存在が今後亡くならないために何ができるか考えたときから医師を目指しました。」

 ミャンマーの場合も、その本人がやりたいやりたくないにかかわらず高校の卒業試験の成績で学部が振り分けられていきます。医学部は最高難度の学部に位置づけられており、たとえ他の学部に行きたくても、成績が500点(女子は525点)を越えていれば、医学部に「入らなければならない」という制度です(ちなみにパレスチナもそうです)。

 けれど、オーさんは違う。まず医者になりたくて頑張って成績を上げてきました。

「来年医者になったら、是非いろんな世界で働こうね!」

「はい!」

 笑顔のまぶしい医学部の6年生(最終学年)でした。

 最終日、タンナインさんの家族親戚とも仲よくなり、気心知れた通訳者としてまた深いつながりができました。これから始まるミャンマー支援事業。

 来週にはその全容が公開できると思います。

 

 激動のミャンマー。日本企業の急激な進出、ODA、JICAの活発な動き。でもそういった国レベルやプロジェクトレベルの話しではない「ある一人のミャンマー人の生きざま」を「地球のステージ」はこれからも伝えていきます。

 今回の渡航により第2期の「ミャンマー篇」の制作に入りました。曲も昨日完成し、イェイェさんをテーマにした「月夜の龍」という新曲も書けました。これから優子ちゃんにコードを取ってもらい、仙台の猪狩さんに編曲依頼です。

 

 

 日曜日の早朝に羽田に戻ります。

 

桑山紀彦

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ミャッセ・ミャー村〜その6

2016.09.22 Thursday

イェイェさんのご両親。

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 お父さんはウ・ツーカさん。52歳。お母さんはダウ・ティンサさん。48歳。ミャンマーでは家族の名前はなく、それぞれがそれぞれの名前を持っています。従って父系や母系社会ではなく、個々が家族を営む戸籍独立社会です。

 お二人の出逢いは今から32年前。あるお祭りでのことでした。

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「実はうちの夫はパオ族ではなく、インレー湖のほとりに住むインター族なのです。彼のお父さんは村長でした。

 あるお祭りの時、私の父も村長をしていましたが村長同士で交流があったため、夫のお父さんが私の村にやってきました。私の父である村長とはなしをしているとき、彼のお父さんは私を見て一目で気に入り、是非うちの息子の嫁にと言ってきました。

 うちの父は他民族との交流が好きだったので、二つ返事でありましたが、私は一つだけ条件をつけました。それは、”お酒を飲まないこと”。私は小さい頃からお酒の臭いが苦手でしたし、お酒で身を持ち崩す人を見てとても不安だったのです。すると、夫のお父さんは、”うちの息子は絶対に酒を飲まない”と約束してくれて、結婚となりました。

 でも私はその時16歳、夫は20歳です。酒浸りなはずないですよね。

 そして彼は私の村にやってきました。それからあっという間に32年。8人の子どもと仕事に恵まれ、ここまでやってきました。」

 なんとも素敵なドラマでした。

 ミャンマーは日本のような父系社会ではないので、この場合もお父さんがパオ族のお母さんのところにやってきたわけですが、それは「婿入りした」というわけではなく、二人で家族を築き、それがたまたまお母さんの家で住むことになった、という話になります。だから日本のように「名前が途絶える」とか「マスオさん状態」といった苦労はありません。

 

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 前日、僕はお母さんに2つの質問をしました。横にはイェイェさんがいましたが、その「母の語り」はとても心に残るものでした。

「お母さんがイェイェさんを育てるにあたって、大切にしてきたことはなんですか?」

「はい、それは”親は子どもに全てを与える。でも子どもからは何も求めない”と言うことです。

 親は子どものためだったらなんでもする。でもその見返りを決して子どもに求めたりはしない。それを心に命じて、この子に接してきました。

 長い年月の中では、作物が育たずどん底の暮らしだった頃もあります。でも、この子が勉強したいというのであれば何が何でもこの子を学校に行かせてあげる。それが親としての役割だと思ってきました。この子は、とてもよく頑張って自分の道を切り開いてきたと思います。」

 

「お母さんがイェイェさんにこれから望むことはなんですか?」

「あなたはこの村で生まれこの村で育った。この村があなたをここまで育ててくれたのです。だからこれからはあなたのできる精一杯の力を持って、この村に貢献していきなさい。それがあなたの役割なのです、とそう伝えています。」

 イェイェさんは静かに聞いていました。

 

 親子の絆。これほどまでに強くつながった親子の絆にふれたことは最近ありませんでした。この家族に触れて改めて自分と母親のこと、自分と息子たちのことに思いを巡らせました。まさにこの家族との出逢いは、自分の”今”を写し出す鏡のようなものだったのです。

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 このお母さんに勧められた納豆。そう、ミャンマーにも納豆があります。これまで人生において、頑なに食べることを拒んできた納豆でしたが、このお母さんのお手製の納豆というのであれば食べないわけにはいきません。五十数年の決意を破って、納豆を食しました。全ては、この誠実で優しいお母さんのために(そんな大げさなことか?)。

 

 う〜ん、ミャンマー、ミャッセ・ミャー村、恐るべし!

 

桑山紀彦

 

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ミャッセ・ミャー村〜その5

2016.09.21 Wednesday

今日は地図をつくりました。

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 いつものようにイェイェさんの実家、30畳の大広間でイェイェさんのお父さん、ウ・ツーカさんと、村長さんの3人で話し合いながらつくりました。

 この村には地図はありません。ドローン持ち込み厳禁のミャンマーでは残念ながら得意のドローンは飛ばせない。空から村を写せば一発で地図がつくれるのに残念です。でも逆にそんなハイテクに頼らず、村長さんたちと鉛筆と紙で地図をつくっていく作業もまた楽しいものでした。

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 東西に長く南北に短いミャッセ・ミャー村。村の真ん中に十字路がありますが、そこは三角形になっており、ちょっと複雑な形をしています。そこには「村の樹」があり、その周りに図書館、駄菓子屋、変電所、小学校があるのみ。あとは東に進んでその突き当たりにこの村で最大の僧院があります。そこが人々のいつも集まるところ。4月の中旬、水かけ祭りの時にはここで大きな行事があります。

 村の中心からは少し離れているけれど、僧院は村全体を見守っています。

 そしてその十字の道を囲むようにはたけと田んぼが拡がり、198の家が散在します。人口980人。明ちゃんの上山市、細谷の集落のようで明ちゃんもしきりに、懐かしい懐かしいと連発していました。

 こうしてみるととても小さな、何もない(失礼)な村です。でもそこに人が住み、家族を築いて農業を営み暮らしている。

「何もないけれどたくさんある」

 それがミャッセ・ミャー村だと思いました。

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 日本語とビルマ語が入り交じるこの共同制作地図、なかなかイケているように思いません?

 

 村長さんのご自宅でお昼ご飯を頂いていたら、村長さんの奥さんのお母さん、ムーさんがいらっしゃいました。

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「よく来たね。日本人がこの村に来たのは初めてだよ。」

 歓迎してくださいました。お歳は76歳。

「でもね、実は正直に言うとこの村に来た日本人は初めてではないんだよ。今から70年以上前。ここにね、日本軍が駐留していたんだ。」

 一瞬言葉を失いました。

 まさか、この平和なミャッセ・ミャー村にも…。

「いや、何も心配は要らない。彼らは悪行を働いたわけではない。ここへ来て兵舎を作り駐留していたけじゃ。ワシの母や父からも嫌なことをされたという話は聞いておらん。

 ただな、今でも畑を耕すと当時の兵舎の土台が出てきたりするんじゃ。」

 すかさず通訳のタンナインさんが言います。

「戦争の時にやってきた日本人と、今来てくれている日本人は全く別です。私たちは昔の日本軍のことを今の日本人にダブらせたりはしません。」

 ミャンマーの人は、いろんな記憶を持ちながらも日本との新しい関係を歓迎してくれています。

 改めて、これからどう関わっていくのか、身の引き締まる思いでした。

 

桑山紀彦

 

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ミャッセ・ミャー村〜その4

2016.09.20 Tuesday

イェイェさんの村は農業が唯一の産業です。農業が振るわなければ、村の存亡に関わります。

 今、このミャッセ・ミャー村村の周辺5つの村が中心となり、植林を行っています。それは過去においてかまどの樹として切り出した山がはげ山となり、そのままでは保水能力が失われるからです。

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 ミャッセ・ミャー村はなだからな東向きの山の斜面に拡がる豊かな村です。山に降った雨は伏流水となり豊富な地下水となります。だから掘れば水がわき出るところがミャッセ・ミャー村なのですが、山に樹が失われると雨が地中にしみ込まず、井戸水が涸れます。それを防ぐべく村中の人が集まって植林をするのでした。

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 しかし単に木の苗を植えるのではなく、村々の祭りのようにそれを儀式として祝うあたりがこの地域のいいところです。

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 この日、イェイェさんのパオ族とタオユ族、そしてダンユー族があつまり植林をしました。朝から民族楽器が鳴り響き、女性たちはそれぞれの民族衣装で若い苗を山に運んでいきます。パオ族は黒い衣装と頭には鮮やかな巻物。これはパオ族の母の祖先である「龍」を模したもの。ミャッセ・ミャー村から若い女性たちが美しい民族衣装で山に入りました。

 みんな、ほほえみを忘れない、気さくで優しい人々。覚えたてのパオ語でこんにちはは、

「マングレア・ディア・オー」

 そしてありがとうは、

「ケチュ・タンガー・オー」

 ミャンマーの共通言語であるビルマ語とは全く異なる「別言語」です。もちろんみんなビルマ語はしゃべられますがやはりここへ来たらパオ語で挨拶が基本です。

 小一時間ほど植林をしてみんなが戻る頃になったら、ざーっと雨が降ってきました。それをミャンマーの人たちは、

「成功の雨」と言います。

 一仕事終えて雨が来るときはいい仕事ができたときなのだと。一つ一つが自然に寄り添った思考でした。

 

 さて、村で一人の少年に会いました。

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 彼はクワを持ち、今道路の補修作業にボランティアで参加して帰ってきたところだと言います。名前はティゾー君。12歳。今は農業をして働いています。

「僕は3人兄弟の2番目。兄は今16歳で同じ農業をやっている。兄は小学校5年生で学校をやめてそのまま農業に入った。僕も5年生で小学校をやめて今働いている。

 僕は勉強よりも仕事を選んだ。家計は苦しく、僕たちは働く必要があったんだ。でも下の妹は今中学校2年生に進んだ。できれば妹にはちゃんと学校を出てほしい。だから僕は働くんだ。」

 これもまたミャッセ・ミャー村の現状。

 

 980人が暮らすこのミャッセ・ミャー村のこと、もっと知らなければなりません。

 

桑山紀彦

 

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