活動2日目はいよいよ被災地マラティア県アクチャダー市のコヅルジャ村に出向きました。
途中に通る県都のマラティア市は一件建物が普通に建っているように見えますが、ことごとくもぬけの殻です。全て倒壊の危険性が高く、撤去対象。人々なしないにある仮設住居での暮らしを続けていました。
そんなマラティア市を抜けて一路コヅルジャ村へ。ここは片野田さんが指摘する、
「被災が著しく、有名になった街は世界中から支援の手が届いている。私たちは小さな集まりの支援なのだから、そんな”大手の”支援がぜったに入らないような小さな村に入って支えたい。」
という方向性がぴったりの、支援の手がほとんど何も届いていない小さな村でした。
ドローンを飛ばしてみると、3本ほどの「線」に沿って家屋が全壊しており、そういった破壊の「筋」~活断層があるのがよくわかります。
そして今回の支援の中心である「食料品パック」と「衛生用品パック」を1軒1軒の半~全壊家屋やテント、仮設コンテナを回りながら手で届けていきました。
付き合ってくれたのは、トゥンジャイさん47歳とその娘トゥーチェ5歳でした。
トラクターに僕と片野田さんを乗せ、支援が必要な家を全部回って一緒に配給を手伝ってくれました。彼は特に村長でもリーダーでもありません。でもこうして現れた日本人を丁寧にもてなしてくれるのです。
3ヶ月が過ぎた今、全壊、半壊の家屋の皆さんは今は国から支給されたコンテナに暮らしていますが、それでもまだテント暮らしの人がいます。標高が高いマラティア県では朝晩の冷え込みが厳しく、みんな苦労しながら暮らしていました。テントの中には「薪ストーブ」が設置されていましたが、その「薪」はどこから来たのかと問えば、
「全壊した自分の家の木材を燃やしているのだ。」
と言います。何とも切ない話しでした。
パッケージを渡した80歳になるベキールさんが言いました。
「今はコンテナに暮らせるようになったからテントの頃よりはいいが、それでもコンテナだってすきまから風が入ってきて辛いんじゃ。早くここから出たいよ。でも自宅を再建する以外、ここを出る方法はない。自宅の再建に政府はその40%を支援すると言っているが、果たしてどこまで本当なのか・・・。しかもあと60%は自分で用意しなきゃいけない。無職で食べるためだけの野菜を作るワシに、そんなお金はない。一体いつになったらここを出られるのか・・・。」
自宅再建の道のりはかなり厳しいものがあります。
続いて61歳のエスマーさんが言いました。
「地震の時にものが落ちてきて頭にケガを負い、しばらく入院してたのよ。今でもその時のことは夢に見るし、お昼にも突然その時のことがよみがえってきて辛くなるときはあるよ。でも一時のように気持ちが沈んで何もしたくないみたいなことは、最近なくなってきたかな。
日本の皆さんには本当に感謝しているよ。皆さんにはこういった不幸が起きないように、心から願ってるよ。」
この大地震がなかったら、絶対に出逢うことはなかったであろうコヅルジャ村の皆さん。まるでミャンマーのミャッセミャー村のように農業中心でみんな自立している生活をされていました。だから今は生活に必要な物資を届けることで当面をしのいでいければ、やがて村のみんなが協力して村全体の復興を遂げていくようなたくましさを感じました。
トルコの村の人々はおおらかで優しく、そしてオープンな心で私たちの訪問と支援を受け取ってくれました。明日は近くの別の村に出向き、支援物資配給と健康に問題あると言われる皆さんの診察の予定です。
桑山紀彦