今日は神戸市立鷹取中学校でした。
「たかとり」と聞いて、どこか懐かしさを覚えながらもあまりぴんときていなかったのに、その職員室の廊下の前に立った時、頭に稲妻が走りました。
「こ、ここは!1995年に阪神・淡路大震災で巡回診療に来ていた学校だ!」
思い出しました。
この廊下には人があふれ、職員室も校長室もすべて人でごった返していました。
僕は1995年1月29日からまず2週間救援活動に入りました。長田区役所の9階のフロアにみんなで雑魚寝をしながら毎日、巡回診療をしていました。
床が冷たく寝るのにこたえましたが、それよりこの未曾有の震災に心震えながら長田区とこの垂水区の鷹取をベースに巡回診療をしていました。
当時の鷹取中学校にはベトナム人を始めとする外国人も多く、重点的に回っていたことを思い出します。校庭には大きなテントがいくつも張られ、ドラム缶のたき火が燃えていました。電気はなく、とにかく寒さが身にしみていましたが、時折すっきりと晴れて太陽が気持ちよかったことを思い出します。
その鷹取中学校で、ステージだったわけです。何という「縁」でしょうか。
呼んでくださったのは兵庫県ユニセフ協会のイベントに皆勤賞で通う高橋先生です。
高橋先生が当時を語ってくださいました。
「あの頃は、中学生が、全力で支援活動に関わっていましたね。弁当配りやビラまき、肩もみ・・・。本当に自分たちも被災していたのに、一生懸命関わっていました。子どもたちは一致団結していました。しかし直接的な被災を受けていない神戸市の北区にすむ中学生は、やはりぴんときていないので震災学習ということで、よく被災地に通わせました。自らインタビューし、自らの目で見て聴いて・・・。そして発表を繰り返していました。そういう中学生の紡ぎ出す”言葉”が大切なんです。子どもたちは同じ世代の子どもが語る”言葉”に敏感です。大人が語るよりもしっかりと記憶にとどめていくのが印象的でした。」
さらに高橋先生が続けます。
「子どもたちは、そうやって3年がんばり続けました。でも3年が過ぎる頃に目標を失っていったんです。前ほどボランティアに積極的になれなくなっていったんです。もちろんそれほどボランティアが必要なくなっていったことも関係していますが、やはりこの3年が過ぎる時期に”次の一手”を打っていかないと、子どもたちは迷い、荒れることがありますから要注意だと思います。」
まさに今の被災地の課題を捉えていらっしゃいます。
今こそ「向き合い教育」「震災学習」「被災地に学ぶ」ということを積極的に行っていくべきであることを阪神・淡路大震災を切り抜けた学校の先生がおっしゃったのです。
私たちの向かおうとしている方向性は間違っていないと思いました。
やはり、広島に、神戸に学ぶことはたくさんあるのです。
桑山紀彦
ここにも本質を見誤らなかった方がいらっしゃった~ということですね。
しかし、震災+津波、原発の被害を受けた東北の傷の深さははるかに甚大です。やはり「わ・す・れ・な・い」活動の重要性を改めて思います。
私も52歳になって、自分の「広汎性発達障害」に向き合うことができるようになりました。桑山さん、閖上の子どもたち、そして丹野さんのことばが、その勇気を与えてくれました。
ありがとうございます。もっと自分の心が強くなったら、閖上のみなさんに会いに行きます
自分もこの三年間、大腸で三途の川を覚悟し
信号待ちで追突され、夜中首の置き場が無く、よく目が覚めましたが随分回復してきました。
最近少し電池が切れぎみですが、ゆりあげに向かおうと思いま
す。
佐藤さんも近いうちに行けるといいですね。