昨日、大船渡のステージの帰り、ずっと国道45号線の海沿いを走り、大川小学校の保護者であられる佐藤敏郎先生の家に遊びに行ってきました。
女川中学校の国語の教諭であられる敏郎先生は、「向き合う教育」を芯にして、一中の生徒さん達と俳句を詠みました。もちろんそれは津波、被災、復興についての俳句です。それは本になり、NHKの番組になり、「こんなふうに現役教諭で“向き合う”ことができる人がいるんだ」という感動と共に、いつか逢いたいと思ってきました。
そして敏郎先生は大川小学校の6年生だったみずほさんを津波で失いました。
そう、あの大川小学校で亡くなった74人の小学生の一人が娘さんだったのです。
初めてお逢いするみずほさんは優しく微笑み、素敵な6年生のままで写真に写っていました。
ちゃんと手を合わせたかった、それがみずほさんでした。お母様のかつらさんも優しく出迎えてくれて、おねえちゃんのそのみさんも顔を出してくれました。そのみさんは大川小学校5年生の時に、「地球のステージ」をみてくれています。ちゃんと覚えていてくれました。
それは2008年の11月。寒い雨の降る午後から、大川中学校で「地球のステージ」公演があり、大川小学校の5,6年生も見に来てくれていたから、出逢うことができた奇跡でした。
そんな敏郎先生の家にはいま、敏郎先生のご両親と、奥さまのかつらさん、おねえちゃんのそのみさんの5人が暮らしていて、とっても暖かいお家でした。まずおばあちゃん(敏郎先生のお母さん)が、
「ご飯食べていきなさい。」
といって、すぐにこんなにおいしいご飯を出してくださいました。
それから敏郎先生とひとしきり11月3日の検証委員会のおかしいところを議論して、後はおばあちゃんの「奇跡の6輪ひまわり」の話を聞いていました。
そのひまわりは咲くはずのない塩害の川の土手に、ある夏突然6輪咲きました。それぞれ形も全く違うそのひまわり。おばあちゃんはびっくりしたけど、ある事に気づいたのです。それは、この大川の福地地区で亡くなった子どもが6人だったことです。まさにその亡くなった子どもたちがひまわりとなって咲いたのだとだれもが確信しました。そして一つ一つのひまわりにみんなで名前をつけてあげたのです。
こんな奇跡がやっぱり起こるんですね。
そして、あとは敏郎先生の家の奥にある離れで、フォークギターかき鳴らして、「フォークソング」をみんなで歌いまくりました。
(一番奥から紫桃さん、敏郎先生、桑山の奥に千葉さん、そして桑山の右が武さん。みんな、フォーク野郎です。)
いや~楽しかった。思わず、今日初めて出逢った者としてはあまりに図々しい登場ではありましたが、かぐや姫やら井上陽水やら、「岬めぐり」やらとみんなで歌いました。
豊かな文化を持った大川の人々。
そこを津波がおそい、この福地地区を残して壊滅してしまったのです。
絶対にこのままで終わらない。終わるわけがない、そんな素晴らしい文化を持った人々の「真実の探求」への道はあくまで「正道」として続けられていきます。
全国のみなさんにきちんと見守ってほしい大川小学校の子どもたちの魂との出逢いでした。
桑山紀彦
「奇跡の6輪ひまわり」のお話は初めて知りました。
伝えたかった気持ちが「ひまわり」になったんでしょうね。
紹介してくださって感謝します。
ヒマワリの種、どうしたでしょうかねぇ?
きれいに咲いた6輪は、種があれば、いくらでも増やせますよ!
http://mainichi.jp/area/miyagi/news/20130905ddlk04040065000c.html
先生、そして地球のステージの皆さん、ありがとうございます。おばあさん達が種を保存して、今年もたくさん咲きました。いろんな方にも咲かせていただいています。
ここにも、進まぬ復興にも挫けずにしっかりと前を向いて生きる人がいる。ジーンときます。
もっと直線的な復興具体策を実施してほしいですね~。