今から116年前の1904年(明治37年)、僕のひーじいちゃん、桑山関次郎は兄の松次郎と共に北海道の開拓に出かけました。
二人は上川郡下川町サンルベシュベに入り、苦労の末定住できたと聞いていました。そして弟の関次郎は岐阜県飛騨高山に帰り、じいちゃんの桑山春由(はるよし)をもうけ、その次男が僕の父、桑山進(すすむ)となります。
しかし兄の松次郎はそのまま北海道に残り、苦労しながら子孫を増やしていったと聞いていました。今から十数年前、そんな北海道に残った桑山家の人脈をしっかり調べようと、富良野の街で電話帳を見た時、たった一人「桑山」の姓で載っていたのが桑山貫一さんでした。ダメ元で電話して訪ねた時は、
「うちの祖先は四国から来た!」
と言い放ち、一旦はルーツをたどる旅が途切れかけたのですが、その後道が開けて北海道に散らばる全ての桑山家の皆さんを突き止めたのですが、その結果貫一さんは兄の松次郎の長男の息子であったことが分かり、まさに「直系だった」という笑えるオチが待っていたのです。それ以来貫一さんとは親交を深め、時々富良野に会いにいったりしていました。
今回は実に5年ぶりの再開でしたが、巨大な農業法人の要職としてなんと1000ヘクタールの稲作の責任を担い、今日はその稲刈り現場を訪問させてもらいました。
美瑛の南、上富良野町にあるその巨大農場は20を越える廃農した農家の田んぼを集めて集約化したものでした。今北海道の農業は集約化と法人化の中で生き残りをかけています。それにしても1000ヘクタールというのは想像をはるかに超える農地ですが、そこにたわわに実った銘柄米「ゆめぴりか」の収穫はたった一人でコンバインを扱い、実に20日以内で終わらせてしまうという、驚異の仕事をこなしていました。
血を分けた桑山家はこうして今、北海道の農業を支えようと奮闘しています。
今日はドローンも使って富良野岳、富良野盆地~美瑛のうねる丘、広域かつ機械化の稲刈りの様子を撮影しました。日本を代表する一つの風景であると感じました。
全てにおいてスケールが飛び抜けている北海道、やはり空が広かったです。
明日は札幌清田高校の公演です。
桑山紀彦