学校現場に思う“心のあり方“〜その2

今気になることは、フィジカル・ディスタンシングという考え方は子どもたちの自意識を刺激して劣等感につなげてしまう可能性が高いと言うこと。
 
 今の学校の感染対策は、感染するということがすなわち「汚染するということだ」とイメージさせるような現場になっているかもしれません。2メートル空けて授業を受けさせることは本当に必要なのでしょうか。
 
 ただでさえ思春期という年代は、自分にはくさい臭いがするんじゃないか?みんな自分のことを醜いやつだと思ってるんじゃないか?と劣等感を持ちやすいものです。そう、自意識が強くなる時代です。そんな時は”みんな”という集団に紛れて、こっそりと自分をつくっていくものです。でも今の学校の感染対策だと、近くに人の「輪」がない。孤立させられている状態になっている。そういう心へのリスクを理解した上で先生たちには感染予防をしてほしいのです。
 
 「感染させないため」という名の下に、学校に行きづらくなるような現場を作ってしまえば一気に不登校が激増します。それでは本末転倒。感染予防が故に学校に行けない子どもたちが増えるという事態をいつも頭の隅に置きながら、「適度の包まれ感」を大切にしてほしいのです。
 
 子どもたちへの影響で最後に気になることは、この「人類」という存在に対していかにも「もろい」というイメージを持った事への危惧です。かつて子どもたちがこんなになすすべのない大人たちをみることはなかったと思います。治療薬もワクチンもなくただひたすら家にこもることしかできない私たち。それを子どもたちは「どうして?」と思っています。そんな意見を外来で多く聞いてきました。
 
 これは”絶対”と思っていた人類への信頼が、失われているかも知れないという心配です。
 
 でも、感染が収まってきている今、子どもたちに伝えていきたいことは、このウイルスの闘いは「勝ち負け」ではなく、共存を目指すことの意味ではないでしょうか。
 
 パレスチナ紛争も、どちらかの勝利が目標ではないと思います。もう既に存在しているもの同士がどう共存していくか、それが最終目標です。中国とアメリカのいがみ合いも、どちらかがどちらかをねじ伏せて闘いが終わるのではなく、きっと悔しいけれど、お互いの存在を認め合っていくことが大切だと思います。
 
 夫婦のケンカだって、どちらかが一方的に悪いということはまず滅多にありません。うちの外来に持ち込まれるそん夫婦関係のトラブルはやっぱりどちらにも理由があります。
 
 世界も、社会も、家族も、学校も折り合わない存在は必ずいるはず。だからそんな折り合わない相手に出逢ったらどうするといいのか。それは自分の正義を振りかざしてねじ伏せたくなるだろうけれど、それが本当の解決の道ではないのでは?と伝えるとても大切な機会かも知れません。
 
 悔しいけれど、相手の存在を認めることで自分の存在も受け入れられて、共にそこに住む理由、すなわち共存の道を見つけていくことの意味にこそ未来への希望があるのだろ言うことを大人が伝える時が来ているのではないでしょうか。
 
 ウイルスとの共存。それはこれからの私たちの取るべき道なのだと思います。それが子どもたちに伝わるような学びができることを望みます。
 
桑山紀彦

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