丹野さんと敏郎先生

今日は我らが「閖上の記憶」が誇る語り部、丹野祐子さんと、大川小学校で6年生だった娘さんを亡くした我らが佐藤敏郎先生のコラボという、これ以上にない組み合わせの講演会が西馬込でありました。

そこにはあの日航機墜落事故、8.12連絡会の美谷島さんも来て下さり、参加者は30名強と少なくてもこれ以上にない濃い内容のセッションとなったと思います。

前日までに再編集した「閖上の足跡」というビデオを流し、語り出した丹野さん。津波から8年を経ても尚、その語りには感情が宿り、言葉が魂になっていきます。

「最初は言い訳をするしかなくて語り出した・・・。」

「公太という名前は自分が初めてプレゼントできたもの。だからその名前を刻みたかった・・・。」

一つ一つの言葉が心に沁みてきます。自然と涙が出てきます。もう8年も付き合っているのに・・・。

そして敏郎先生の言葉。

「遺族と言われることは、二人来ているということ。自分と亡くなった娘の2人がそこにいるから”遺族”って呼ばれるんだと思うようになってきた・・・。」

「がんばるね、の”ね”はごく親しい人に向けられた言葉。だから「がんばる」と「がんばるね」は違う意味・・・。」

本当に「言葉」が交わされ、活きて思いを深くしていく。

完成度の高い3時間でした。

でもやはり思うのは、それを陰で支えるうちの絵莉香ちゃん。もう5年も「閖上の記憶」担当としてがんばってくれているけれど、彼女の思いも乗せて丹野さんは語っていると思います。

それにしても敏郎先生に、

「閖上の記憶ほどすごい存在はどの被災地を探してもない。」

「桑山さんらがやった”音楽ワークショップ”、ガレキで作った楽器をたたきまくって歌うということには度肝を抜かれた。」

ということばを頂くと、嬉しいやら何やら・・・。幸せな気持ちで西馬込をあとにしました。

丹野さんも絵莉香ちゃんも無事、宮城に帰ったようです。

桑山紀彦

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