羽島高等学校

7年目の羽島高校もまた、感動の高校でした。

今年は3年生の一部に課題はあったものの、1,2年生は静寂を作り、3年生のその一部の生徒以外はとても落ち着いていました。だからその「一部の」生徒もそれ以上の事はできない雰囲気でした。それこそがみんなの雰囲気で学校の中の戦争の火種をそれ以上に延焼させない、その集団の持つ力なのだと思います。

 

終わった後の座談会には今年、先生たちが何人か入られその先生たちからも質問が来ました。その一部の心ない行為をする、ルールが守れない子どもたちにどう接するといいのか。落ち着いている子どもたちへの影響性を考えるとどう対応するといいのか、先生たちも悩んでいます。もちろんたった90分の「地球のステージ」で関わる自分と、それこそ365日関わっている先生たちとでは苦労の度合いも違うし、接する密度もちがいます。圧倒的に先生たちの方が子どもたちの情報を持っています。だから先生たちが判断することの方がおそらく正しいし、一番子どもたちに添っていると思います。でも時々、毎日接しているからこそ見えなくなっていることもあるかもしれない、そんな視点でコメントしてみました。それは、

「どんなに荒れた奴にも必ず理由がある」

ということです。基本人間は素直に生まれてきていると思う。でもいろんな要素で悔しかったり、悲しかったり、腹立たしかったりして傷つき、やり込められ、復讐心をたぎらせ道を外しているのかもしれません。それは心ない周りの大人だったり、実は両親だったり・・・。

必死に生き抜こうとした時、そんな心ない大人に対抗するべく荒ぶれる。これは単純かつステレオタイプな例えではありますが、そんな背景がこの子の後ろにあるとしたら、指導の仕方も変わってくるかもしれません。もちろん、

「だからといってルール違反を認めることはできない」

わけで、そこは線引きが必要ですが、

「なんでこいつはこんなことをするんやろう。どれだけ大人に嫌な思いをさせられてきたんやろうか。」

という視点を時々持ち込むことで、その子も救われる時があるのではないだろうか、と思うのです。

もちろんこんなことはたった90分しか時間のない桑山に言われたくないことだとは思うけれど、「すべての出来事には意味がある」

と考えた時、荒ぶり、落ち着かない生徒がいても決して壇上からその子たちを指さして注意することは絶対にしないと決めています。

どこまでやれるか分からないけれど、90分なりに取り組んでいこうと思います。

桑山紀彦

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