今日は秋の高山祭りでした。
年に2回、春祭り(4月14日、15日)と秋祭り(10月9日、10日)がありますが、小さい頃からいつも楽しみでした。もちろん学校が半日休みになることはもちろんですが、ヤシ(お店屋台のこと)がでて、いろんなものを見て回れるのがとても刺激的でした。
当時のヤシ店には「猿のタバコ」というものがありました。プラスチックで出来た小さな猿の口に穴が開いていて、そこに附属の小さなタバコ様の棒を差し込んで火をつけると、ぽっぽと煙が出てきてあたかも猿がタバコを吸っているような感じになるおもちゃでした。
今はどこの祭りのヤシ店に行ってもその姿を見かけることはなくなってしまいましたが、皆さんご存じですか?
さて、今日もたくさんのヤシ店が並びながらも本来の高山祭りを語らなければなりません。
高山祭りの起源は飛騨の両国大名金森氏の時代(1585年~1682年)、屋台の起こりは1718年頃にさかのぼります。この金森氏は一時山形県上山市に城を築きました。それにより高山市と上山市は友好都市です。そしてその上山市と名取市は姉妹都市です。ということは三段論法で考えると高山市と名取市もつながっていいはずですよね。
そんな事を考えながらずっと撮影をし続けていました。この映像がいつか、故郷篇の映像として使われる日が来ることを想像しながらですが、当面は震災篇、復興篇の映像に入ることはありません。それくらい日本の普通の風景映像を使う日はまだまだ遠いように思います。
実際今日も撮影しながら歩いていても、
「この文化財が津波で流されたら、どうやって取り戻すといいのか。」
「こんなふうに街をあげた祭りが被災地もあって、おみこしやら祭り装束やらたくさんあったのに、みんな流されて、いつ街の祭りを復興させるといいのか。」
と考えてしまう自分がいるし、みんなとご飯を食べていると家族連れがやってきます。そんな光景を見てしまうと、
「息子さんを失った○○さんは、こんな時間をもう過ごせないのか・・・。」
と思って切なくなったりしています。
これまで幾度となく高山祭りには来ましたが、やっぱり「津波後」の祭りは別のものになっていました。
いや、これでいいんです。今まで通りの高山祭りでいい。でも、変わってしまった被災地がもう一回こういった「祭り」が本当に出来るようになることを祈って止みません。祭りはその地域の勢いそのものです。いつの日か被災地にもう一回本当の祭りが戻ってくることを祈って、災害の少ないこの高山の地を歩かせてもらいました。
からくり奉納
桑山紀彦
“猿のたばこ”知りません。
私は見た事ない気がします。
私は、お祭りが、なんでだろう、あまり好きではなかった気がします。高山祭に行けて良かったですね。お母さんとたくさんお話出来ましたか?
祭りは、その町々で脈々と継がれてきた生活そのもので絶対に消えません。
どんなに土に埋もれても、強い生命力で必ず復元することを信じています。
今回の震災で、市町村丸ごと津波の被害にあった多くの地区では、有形無形の財産が一瞬にして流されてしまったのではないでしょうか?その一部はもう二度と戻らないかもしれない・・・しかし、生き残った人やその人たちの記憶や記録があれば、たとえばお祭りなどは、多少の違いは余儀なくされても、必ず復活すると思いたいです。きっと、高山祭も、順風満帆の時ばかりだった訳ではなく、何度となく消滅の危機を乗り越えての現在だと思いますから。祭りは、その地区に宿る人々の魂の現れです。魂がある限り・・・。
わたしは、前と今の自分の違いに悩んでいます。
この前ディズニーシーに行ってショーをみていたら、自然と涙が出てきました。
その時心にあったのは、たくさんの人が幸せそうにしているのが嬉しかったのと、来たくても来られない人もいるという気持ちだったように思います。
その日の夜、食事をしていたら緊急地震速報があちこちから聞こえ、今度は恐怖で涙がでました。
わたしは被災地で暮らしてる訳でもなく、普通の暮らしが出来ているのに、地震や津波のことに敏感になりすぎてる気がして、それってどうなのかなぁと毎日自問自答しています。
寄り添うとは難しいことですね。
『猿の煙草』知ってまーす。
正確には『猿』だったか?いまいち曖昧ですが…
ちょっとロウの様な匂いがする丸い輪の煙りがポンポン出てくるのを眺めてました。
懐かしい…
高山は昔々おぢゃました事が有りますが 高山祭は未体験。
さるぼぼが可愛くて何種類も買い集めてました。
確か 私の父の父 つまり おじいちゃんが 高山の出で 小さい時 よく高山に 行っていたようです。
祭りも 見ていたかも・・
二人とも 早くに亡くなり、母も亡くなり もう 聞くことは 出来ません。
いつか 桑山さんのように 妹と ルーツを 辿りたいね と 話しています。
桑山紀彦 様
前回高山旅行をした話を投稿しましたが、
上記の写真・・・からくり人形の山車を保存館で拝見しました。
そしてビデオでも。
しかしこのような祭りの方が一番、いい伝統ですね。
皆の息遣いが聴こえてきそうです。
日本の普通の風景があまりにも特別なものに思えてしまう。それが被災地の現実だと思います。
先日、NHKスペシャルで「東日本大震災、医師たちの闘い」を見ました。その中で石巻赤十字病院の医師たちが、仙台を訪れたとき、津波被害の石巻と仙台市が余りにも違いすぎ「別世界だ!」とつぶやきます。津波の被害のあったところとないところの差があまりに大きいいのです。被災地の人々にとっては普通の生活がどんなにか羨ましく、自分たちの生活がどんなにか悲惨なものか、またこころの傷は計り知れないものがあります。
普通に生活する私たちには窺いしれないものであろうという辛さがあると思います。
普通の生活を普通に生きる私たちは、少しでも被災地にこころを寄せて生きなければいけない。
和歌山 なかお
高山を訪れたくなりました。長閑な温かい感じを受けますね。
いつかきっと訪れようと思います。
日常が突然無くなってしまった3.11から7か月です。石巻の避難所が閉鎖されたそうです。
まだ行く当てのない方もいらっしゃるそうです。早く安心できる居所をと願っています。
岐阜に生まれ、ずっと住んでいても一度も高山祭りを見たことがありません。
屋台会館で見ただけです。いつかきっと、いえ必ず見に行くぞ!
地球のステージからお借りした写真展を今週ステージをやっていただく公民館に展示しました。
剣道の練習にみえた方、バトミントンの大会にみえた方、図書館に本を借りにみえた方・・・。
多くの方が足を止め見てくださっています。
スケッチブックには、たくさんの子ども達がメッセージを書いてくれています。
私達に出来ること、それは桑山さん達に教えていただいたたくさんのことを私達の周りの人に伝えていくことだと思います。
今週の土曜日、お待ちしています。
「血につながる ふるさと
心につながる ふるさと
言葉につながる ふるさと」
思わず、藤村が頭にうかんできました。
私も故郷(長野)を離れて早23年。すっかり大分人となった様でも、故郷には特別な思い入れがあります。
ところで、9日は、こんなに遠い大分までお越しくださり有難うございました。家人の急病でお会い出来なかったことが、本当に残念でなりません。
また来年の秋でしょうか?
それまでは、ここでこうして、つながらせて頂きたいと思っています。どうぞ宜しくお願いいたします。
ではまた、あした。
こんにちは。
久しぶりに落ち着いた時間ができ、ブログを拝見させていただいています。
フッと辛い過去に戻された気持ちですが、みなさまが強く頑張って生き抜いていらっしゃることにとても感動しました。
現地のことは忘れていません。
これからもブログを楽しみにしております。