合同慰霊祭

 昨日、閖上公民館で合同の慰霊祭がありました。

 曹洞宗の2つのお寺が壊滅状態になりましたが、そのお坊様たちがなんとかお盆に亡くなった人への供養をしたいということで、合同の慰霊祭となりました。
 明ちゃん、江里ちゃんと出かけました。
8/17-1
 浄土真宗大谷派(東本願寺派)の僕は、髪が生えたお坊様を見るのが普通ですが、やはり曹洞宗は皆さん髪の毛を剃っていらっしゃいます。東北の太平洋沿岸は曹洞宗をはじめとする禅宗で7割以上を占めるといわれています。
 向こうに瓦礫、そして倒れた墓地が見えてとても切ないものになりました。
 ご焼香が終わると、キャンドルに火が灯されました。竹の筒の中にキャンドルを入れるとこんなふうにはっきりとした文字になります。8/17-2
 なかなか良い感じでした。
 こうして夏が過ぎていきます。イベント多い夏。季節的にも暑くてなんだか躍動感がありますがこれからはどんどん「秋」になっていきます。季節は涼しくなりもの悲しさが襲ってくる時期です。そしてイベントも夏ほど多くはなくて落ち込む時期に入るような気がします。だからこそこの2学期。みんなの気持ちを一つに盛り上がっていく必要があるように思います。もちろん「普通の生活」を大切にしながら。
桑山紀彦

合同慰霊祭」への6件のフィードバック

  1. 桑山さん 明ちゃん大津での ステージありがとうございました。
    ステージを見て 頭が活性化されたのか 4時半に目を覚ましてしまいました(^O^)
    大阪では 恥ずかしいいや 腹立たしい事件が テレビに!
    東北の方々が 教えてくださった「いのち」の 大切さ なんと 思っているんだろう?

  2.  僕の家は浄土宗で本山は京都の知恩院にある。
     父は昔からのしきたりを大事にする人で仏教についての知識や浄土宗の教義などまったく分からないにもかかわらず、やたらと「日本古来からの慣習なのだ」といって、仏壇や墓参りなどを大事にしていた。余りにしきたりばかりにこだわるので、僕は子ども心にも反発を感じた。墓石などはただの石で、なぜそのように綺麗にみがいたりするのかまったく分からなかったし。お盆や彼岸などにお参りするのにも、幽霊などこの世にいないのに、日本人がなぜそのような風習をするのか理解できなかった。
     成人し、人間の苦悩や悩みについて思いいたるようになると、仏教の書物や宗教関係の入門書など読み耽るうち、仏教というものの奥深さに心打たれるようになった。五木寛之の仏教関連の著作によるものもある。宗祖「親鸞」や中興の祖「蓮如」を扱った五木寛之の小説や戯曲なども僕のこころを動かしたものとして挙げることができる。
     -なんまんだああ、なんまんだああ、と子どもの頃によく大人たちから葬式や仏事で聞かされたものである。僕の親父いわく「これは昔からそう唱えるものなんだ」という説明だけでなにも説明がされなかった。これでは、これがなぜありがたいのか子どもにはまったく理解ができなかった。古い日本の因習に囚われているのではないかと思うだけであった。
     ある書物によると「なんまんだあ」というのは「なーむ、あみだぶつ」ということなのであるそうだ。「なーむ」というのは、すべてを預ける、誰に預けるのかというと「阿弥陀仏の世情を救うという本願」に身も、こころも捧げて、それにおすがりする。それが「なむあみだぶつ、南無阿弥陀仏」ということだというのである。
     仏教の経典はおよ3000点あり、そのなかから、各宗派によりこれが仏教の本質だという経典がちがうのである。そこに宗派の違いが生まれるのである。真言宗は大日経、日蓮宗は法華経、そして、浄土宗や浄土真宗は阿弥陀経と、それぞれに仏教の根本精神が説かれていると考えるのである。
     さらに浄土宗と浄土真宗の違いは、「南無阿弥陀仏」と、いくども唱えることにより、阿弥陀仏に救われると考えるのが浄土宗であり、こころをこめてたった一度でも唱えれば救われ、また古いしきたりにも捕らわれないと考えるのが浄土真宗である。しきたりからの開放の一つに僧侶の婚姻、頭髪を伸ばすこともその一つである。また在家と同じ生活をするというのも浄土真宗の考え方である。日本人の僧侶として最初に妻帯したのが宗祖親鸞である。
     曹洞宗や臨済宗という禅宗は、お経を唱えるだけでなく、座禅も大事な修業の一つと考え実践するのである。曹洞宗を起こした道元は、「只管唯座」というように、座禅を突き詰めて考えており、座禅によってしか、救いも悟りも得られないとしている。それぞれの各宗派に一理のあるところである。
     そんなことよりなにより今年は、大震災・津波により多くの人が亡くなられた。大変なことが起こってしまった。このことを日本人は真摯に受け止めなければいけない。
     私たちはこころを込めて、亡くなられた方のご冥福をお祈りし、復興に向けてこころを一つにして取り組んでいかなければならない。それが残された私たちの使命である。それが、なによりの供養ではないか。
     いま、ひとたび、合掌。
    政治家たちよ、党利党略による政争を繰り広げている場合ではない。
     和歌山 なかお
     

  3. まだ瓦礫が残っているのですね。支援が行き届かないのを悲しく思います。
    合同慰霊祭、皆さんの想いを繋ぐ場になって良かったですね。
    秋に入ったら、学校や地域で文化祭や体育祭のようなイベントが開けるといいですね。

  4. 春から夏は、桑山さんがおっしゃるように
    私も躍動感を感じて
    「前向き」に居られます。でも秋になると、何もかも終わってしまったような寂しさが押し寄せて来て「後ろ向き」になってしまいます。
    被災された方々は、特に寂しさを感じてしまわれるのではないかしら。と心配に思います。
    私達の心がいつも寄り添っていることを忘れないで下さい。

  5. 歌の世界では秋は物悲しい季節みたいに描かれてるけど
    秋は決して寂しくない!!
    実りの秋!食欲の秋!
    海も山も、秋こそ収穫の季節ですよ!
    歌は歌、現実は結構楽しいぞ!楽しくしよう!

  6. 句読点の句程度でしょうが少しずつ少しずつ整理がついて、少しずつ落ち着く気持ちが広がって行くのを期待しています。
    それにしても、今、日本人は皆大震災に思いを寄せて敬虔な気持ちを持って、生活していると思っていたら3月11日依然と変わらない、いやな事件が減らないのはどうしたことでしょう。ひねくれ者に憤りを禁じえません。

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