昨日は駒ヶ根訓練所のステージでした。
でも朝は名取のクリニックで診療をしていました。
なんと福岡県飯塚市の飯塚病院の救急部に勤務する田中誠先生が来てくれていたのです。田中先生は4月に3週間、クリニックの支援に来てくださりそれ以降6月、そしてこの8月にも支援に来てくれているのです。「継続」の人。おかげさまで奈実香先生が長目の夏休みが取れています。
田中先生はいつも
「名取に来ると被災地の様子がわかり、そして復興を感じる」
とおっしゃいます。継続してくることで閖上の様子、北釜の様子、避難所から仮設住宅へ・・・、変化を感じ取っていらっしゃいます。
「次は10月に来ますから!」
明るい笑顔でおっしゃる田中先生が大好きです。元々喜界島という鹿児島県の美しい島で長く医師をしていた田中先生。
「来年の夏は喜界島でステージをやりたいですね!」
と本気です。また10月にお逢いできます。
さて、午後に入って一路駒ヶ根を目指しました。500kmの距離はさすがに厳しいですが走らなければなりません。途中新潟で事故渋滞に巻き込まれ30分は失いました。それでも上越から上信越道に入り、長野、松本と南下していきました。そして駒ヶ根に着いたのは18時30分。まあまあの時間でした。開演は19時です。よかった~間に合って・・・。
通常午前中診療して、500キロ走り、ステージに臨んで・・・、と聞かれるとものすごく疲れてしまうことを想像されるかもしれません。
でも青年海外協力隊及びシニアボランティアのステージは違います。やはり国際協力を目指してそこに集まる人たちですから、その雰囲気は最高です。だから昨日もステージが終わってぜんぜん疲れていない。やっぱり「心」というのは大切でよね。
「心が元気だと身体も元気」
って感じです。ただいつもの2次隊にしてはさらりとしていて若干クールな感じがしましたけど、それはその時のメンバーによって作られるものですからね。
そしてそこからまた100キロ走って故郷飛騨高山に到着。さすがに夜の北アルプス越えは厳しかったので、着いたら珍しくお風呂にも入らず寝てしまいました。ブログも翌朝になってしまいました。
今日は親父の7回忌、そしておばあちゃんの27回忌です。おばあちゃんと言えば、あの「地球のステージ5」の「命を辿る旅路」篇で出てくる松次郎、関次郎の兄弟のうち弟の関次郎の長男のお嫁さん。それが27回忌を迎える敏ばあちゃんです。
お盆は亡き人が還ってくる時。
閖上にも、下増田にも、そしてこの高山にもたくさんの人が還ってきます。
桑山紀彦
ここまでお疲れ様でした。我が家も親戚が集まり、墓参りです。父が亡くなって8年、祖母が亡くなって34年です。多くの祖先の思いを受け、心のバトンを受け継いでいきたいと思います。今回の震災や多くの災害等で亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。高山でゆっくりしてください。またお会いしましょう。
被災松
被災松問題の経緯
7月上旬 岩手県陸前高田市の高田松原の松にして大文字送り火で燃やす計画が明らかになった。その後「放射性物質は大丈夫か」などの声が京都市や大文字保存会に寄せられる。
7月下旬 京都市の要請で保存会は薪を検査し、その後に放射性物質が検出されないことを確認
8月4日 保存会で意見がまとまらず、計画中止を決定
8月6日 保存会理事長が現地で薪を集めた関係者に謝罪
8月8日 当初の薪が陸前高田市でお盆の迎え火として燃やされる。この日までに中止への批判や抗議が300件以上京都市に殺到
8月9日 京都五山送り火連合会が、京都市が現地から取り寄せ別の薪の受け入れを決める
8月11日 大文字保存会が別の薪を燃やすことを決める。五山そろって燃やすことに
8月12日 京都市が薪から放射性物質が検出されたとして、計画の中止を発表
神戸大学大学院山内知也教授の話し
「放射性物質が出たい上、汚染拡大を防ぐための使用中止は妥当だ」。
京都大学内海博司名誉教授の話し
「検出された放射性物質の量なら健康には影響しない。市は、送り火の意味を踏まえ、検出されたが実行すると言ってほしかった。市は京都の名誉をおとしめるとともに、被災地の風評被害を助長させたと言える」。
神戸女学院大学名誉教授内田樹の話し
「大文字保存会に科学的な適否の判断ができるはずもなく、それを批判する側も必ずしも科学的な根拠に基づいているわけではない。これは市民倫理の問いであり、その判断は一人ひとりが個人として引き受けるべきもので、メディアも世論も頭ごなしに成否を語るべきでない」。
門川大作・京都市長の会見
「五山の送り火で天に届けたかった。断腸の思いだ。被災者に申し訳ない」。厳しい表情のまま、約1時間も会見中に何度も頭を下げた。
ー以上8月13日付け朝日新聞朝刊よりー
和歌山 なかお
改めて、お盆=ご先祖、と考えると、自分も人のつながりの中で生まれたんだなぁと感じます。
お盆という時が、人の気持ちを静められますように。
この夏は8月上旬に帰省し、父が「あんたがおるから、盆みたいな気がする。」としきりに言ってました。私は、この夏東京で過ごして、お盆と言う感じではありません。父が今日一人でお墓に迎えに行ったんじゃなぁなんて思いながら仕事から帰ってきました。
昨日は無事に高山に到着、良かったです。
大変ご無沙汰しておりました。
この間、思うところあって、コメントを控えていたところでしたが、今日から復帰させていただくことにいたしました。
コメントは控えさせていただあいておりましたが、ブログは毎日拝見させていただいておりました。
先生のブログをみるにつけ、己の無力さを痛感させられてきました。
むろん、この間、支援を手を緩めたことはありません。
逆に、意地になってムキになっていうべきでしょうか?
本来被災者である先生がここまでがんばっているんだから、被災していない自分が手を緩めてどうする?という気持ちで
走り続けてきました。こんな大変な時期なのに、先生は外国への支援を続けている。
しかし、走っても走っても先生の背中がみえません。
そのことが、自分に対する疑念になりはじめました。
元より、自己満足の自分勝手に支援しているわけですので、疑問の余地などなかったのですが・・・
以前、高校生平和大使に教えてもらった「微力だけど無力じゃない」という言葉だけを頼りに走ってきました。
しかし、微力どころか、むしろ、最早無力なのじゃないか?と。
何度も津波の映像をみながら、考える毎日を過ごしていました。
しかし、元々役に立つことは目的ではなかったことをようやく思い出しました。
5月に宮城県を訪れた際、みなさんと約束したことを思い出しました。
お役に立てないかもしれない。でも、最後まで見届けます。
と。
私のやるべきことは、被災者全てが生活者に戻る、その日まで被災地を見届ける、それだけだったのです。
そして、このことを未来永劫まで記録を残すということが使命であり、役に立つなどということ自体が
おこがましかったのです。
先日、別件で多賀城市役所の方と電話で話しました。
実は5月に多賀城市を訪れた、と告げたところ、せっかくならば寄ってくだされば、と申されました。
私もお寄りしたかったのですが、大変な時期でしたので、ご遠慮させていただきました、とお返事したところ、
わざわざ九州から職務命令でもないのに来ていただいただけでもうれしかった、といっていただきました。
この会話が、私にとっての全てと思いました。
ずっとそばにいる。それだけが私の役目。それだけが私にできること。
そう考えると、先生の背中がみえなかった理由もわかりました。
隣にいる人の背中はみえません。最初からみえるはずはなかったのです。
つくづく愚かだな、と内省している次第です。まだまだ修行中の身です。
お役に立てるかわかりませんが、などとおこがましいことをいうつもりはありませんが、このまま、毎日ブログを
訪れることだけはお許しください。
とはいうものの、毎日読むにつけ、ぜひご自愛いただきたい、と願うばかりです。
ぜひともご自愛くださいませ。先生を頼りにしている方々のためにも。
歌手・河島英五氏は阪神大震災の時に、継続が大切と思い10年間支援コンサートを企画し7年目に倒れ、そのあとを2人のお子さんが引き継いで終了したそうです。
これからが大変な時に田中先生の継続は貴重で、災害支援のなんたるかをよく存じておられ、敬服します。
昨夜、フジTV「わ・す・れ・な・い~東日本大震災155日の記録」を見ました。改めて被害の甚大さと今後の大変さを痛感して、自分なりの継続した関わり方を考えさせられました。
それにしても、心の張りが支えの強行ドライブは、やはり心配です。継続のために、ご自分の健康管理も責任の一つです!。
駒ヶ根訓練所でのステージ、ありがとうございました。
桑山さんのステージを聞いて、駒ヶ根に来てから、忘れかけていたこと、たくさん思い出しました。もちろん、辛いことも含めてですが・・・
私は仙台出身です。3月11日の震災で、いろんな経験をしました。失ったものもあります。
その状況下で、協力隊に参加する意義をまだ見つけれずにいましたが、なんとなくステージを聞いて、見つけれるような気がしてきました。
本当にありがとうございます。
私達が 支援のために 送らせて頂いている資金で
桑山先生の「お抱え運転手さん」を 雇うことは できないのでしょうか?
先生の、青空のような清んだ歌声を
たくさんの人に届けてもらいたいです。
桑山先生のような、温かい大きな心の大人を、たくさんの子供たちに感じてもらいたいです。
だから
ご自分を大事にして活動に専念して下さい。
どうか無理をしないで欲しいと思います。