野田文隆先生との別れ

共に多文化間精神医学会を設立した先輩医師、野田先生の告別式でした。

東大の医学部に入ったのに途中で辞め、文学部に転校して卒業後はサントリーに就職して、当時は誰も意味が分からなかった「コピー・ライター」という仕事に就き、その後もう一度医師を志して千葉大学医学部に入学。三十半ばで医師となり、私たちは出逢いました。

多文化間精神医学会ができて25年。常にトップリーダーとして率いてきた野田先生。昨年3月に膵臓がんのことを知り、慌てて会いに行こうとしたら「そんなに早く死なないよ」と言われて、安心していたのも束の間、今年の1月3日に逝去されました。

そんな野田先生の告別式はなんとあの芝公園横の増上寺。派手さが違います。300人を超える人々が集まり、厳かに式が進んでいきました。葬儀委員長は阿部裕(ゆう)先生。多文化の先輩です。別室に野田先生の足跡を展示するコーナーがありましたが、学会を設立した時の写真の中に、あの頃の自分がいました。

野田先生から見たら、血気だけは盛んな「活動者」としての評価でしかなかった自分だと思いますが、第2回多文化間精神医学会賞を頂いた時も、学究者ではなく活動者としての評価だったと理解していました。

そんな野田先生とのやりとりで忘れられないことがあります。

あの時はカナダ、バンクーバーの日系人コミュニティを接点を持っていましたが、一方でカンボジア難民支援の仕事も始めていました。しかし国際協力でやっていくのか、多文化間精神医学でやっていくのか、迷っていた時に野田先生にお願いをしました。

「野田先生がブリティッシュコロンビア大学から離任されると聞いたのですが、その後釜に僕を推薦して頂けませんか。」

と。しかし野田先生はいいました。

「ただのハク付けのために行くならやめた方がいい。先生は本当に学究をやりたいのか、ちゃんと考えてほしい。自分に何が合っているのか考えるべき時期だ。」

それは事実上、ブリティッシュコロンビア(BC)大学には推薦できないという意思表示でした。とてもがっかりしましたが、実はそれが今のこの国際協力へまっすぐ進むきっかけになったのです。もしも野田先生がOKを出してBC大学に行っていたら、今の自分はないし、国際協力も「地球のステージ」も「心理社会的ケア」も、そして津波の被災もなかったと思うのです。野田先生は僕に、

「君に向いているのは学究ではなく市民活動だろう。」

という示唆を「断る」ことで与えてくれたのだと思います。そんな野田先生に今は感謝しながら、一方で多文化間精神医学会からは離れてしまっている自分を申し訳なく思いながら、今日の告別式を見ていました。

明日の夜からパレスチナ。ギリギリ予定が間に合ったのも、何かの運命かもしれません。もしも野田先生が時々空から見ていたら、「活動者」としてしっかりやれているか、時々おしかり頂きたいと思います。

今日はあえて増上寺に54年前の真っ赤なイギリスのロードスターで乗り込ませて頂きましたが、最後までPopであることを身上とされていた野田先生に少しでも報いたくてのことでした。増上寺の地下駐車場で一瞬エンジンがかからなかった時は焦りましたが、なんとか帰ってくることができました。

野田先生、長い間お疲れさまでした。

またお目にかかれることと信じております。

桑山紀彦

野田文隆先生との別れ」への2件のフィードバック

  1. 野田先生から長い期間世話してくれていました。
    留学生の私にとって心の中大切な人です。
    いろいろありがとうございます。

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