今日は公演のあと、大川小学校のご遺族、佐藤敏郎さんのご自宅にお邪魔しました。
敏郎先生は4年前までは学校の先生をされていましたが、今は辞めて全国を歩く講演者として活躍されています。
敏郎先生とは年齢もほぼ同じ、フォーク好きでしかも学校で国語を教えてきた先生となれば、本当に共通の話題も多く、もっと早くに出逢っていたならば「ガキの頃からの友だち」になっていたかもしれません。でも決定的に僕と違うのは大川小学校で次女のみずほさんを亡くしていることです。その体験の違いが、ともすれば敏郎先生への遠慮になっていたところもありましたが、丹野さんがそうであるように、付き合えば付き合うほどそういった違いはあっても、共に歩んでいけるという思いになれる、そんな大切な一人です。
敏郎先生の奥様かつらさん。元中学校の美術教師ですが、いつも震災篇で歌っている「空へ」はこのかつらさんのためにつくったものですから、場合によっては聞いたことのあるお名前だと思っています。
敏郎先生のお母さん、つまり「おばあちゃん」は今年81歳になるのにものすごく元気で、いつもお邪魔するとご飯をつくって下さいます。今日もサバの味噌煮が最高でした!
大川小学校は、その校舎が震災遺構として残されることは決まったけれど、何せご遺族(一部)と石巻市は裁判で係争中であり、昨年は高裁の判決で圧倒的にご遺族が有利な状況ですから石巻市もぴりぴりしています。そんな中で進んでいく「大川小学校の保存とその先の未来」にはまだまだ不透明かつ微妙な課題が多すぎて、敏郎先生も苦笑するしかないところがあります。でも敏郎先生は一生懸命その間に入りながら、課題に取り組んでいらっしゃいます。
いつも「向き合うことが大事」という点で敏郎先生とは気持ちが通じ合うので、なんだかこの家に来るとほっとして落ち着いて、まるでミャッセ・ミャー村のイェイェさんの家のようです。
亡くなったみずほさんはあの時小学校6年生。つまり今年成人式のはずでした。
お兄ちゃんは一念発起して漫画家となり、昨年ついに作品を本にしました。「蒼空はるか」。漫画の「佐藤ヤス」氏がご長男です。劇画がうまい!!アマゾンで是非!
お姉ちゃんは現在日大芸術学部の映画監督コースで映画作りを学んでいます。すごい兄姉たち。そしてお父さんは元国語教師、お母さんは元美術教師。想像力のかたまりのようなご一家です。
もしも、みずほさんが生きていたら、どんな活躍をしていたでしょうか…。「ゼロ戦と大地」篇でも出てくる大川小学校の話し。学校管理下で子どもの命を守る話しはこれからも僕なりに伝えて行こうと思いますが、その原点はまさにこの敏郎先生ご一家との出逢いが基礎となっています。 みずほさんは向こうの世界でめいっぱい活躍しているだろうと、そう思います。
今日の学校を呼んで下さった盟友校長先生にも感謝。そしてこの出逢いに感謝。できればみずほさんに一目、会いたかった…。
後ろ髪引かれつつ、敏郎先生の家をあとにしたら、マフラー忘れました。「また来い!」ってことだなとみずほちゃんに思いました。
桑山紀彦
この6月大川行きを計画しています。震災のの年には地元富山で、原発の関係で富山に避難された方々の生活支援ボランティアを1年間させて頂いておりました。その間、陸前高田でほんのちょっと、田んぼの石ころ拾いや草取りをさせて頂いたり、4年前には広野町から大槌町まで海岸沿いに訪ねさせて頂いたり。
もう77歳です。動けるのも今のうち、最後と考えて、大川小学校を尋ねさせて頂きたいと思っています。「あの時 大川小学校で・・・」「止まった刻・・・」「事故検証委員会を検証・・・」なども読みました。本当に読み返すたびに、大川小学校に関係されたご家族や地区の方々のお苦しみに涙しております。「ぜひ佐藤様にもお会いできれば・・・」などと、欲張ったことも思っています。