今日は名取市長に会いに行きました。
佐々木市長の健康は、不詳この桑山が全力で守ると心に誓って以来、ずっと関わらせて頂いています。今日は桑山が採血させて頂きました。いつも背筋の伸びた市長には励まされます。
「閖上の復興プランはどうですか?」
「もちろん、全力でやりますよ!」
「かなり具体的ですか?」
「うん、かなり具体的だ!」
嬉しいお言葉でした。
「ところで市長、私たちはいまこの3月の閖中の卒業生のみんなのためのワークキャンプを企画しています。」
「それはいいな。あの子たちは一番苦労したのに、みんなばらばらになってしまったからなあ。」
「はい、今いろんな人の協力で少しずつ住所がわかるようになってきています。必ずみんな集めて第1回目の同窓会を開きますので。」
「どこでやるのかな?」
「山形の、朝日自然観のコテージをいくつか借りました。」
「それは豪華だ。よろしく頼みますよ、先生!」
市長に言われると、がぜん元気が出てきます。一人でも多くの卒業生に集まってもらい語らいの時間を過ごしたいと思っています。
時々、夜の閖上に今も行っています。
一つには日中なかなか時間がなくて、いけない日が重なるとせめて夜の時間帯に江里ちゃんの家に行って、
「まだ建ってる。よかった」
と確認することが日課になっている点。もう一つは閖上のおばけに逢いたいからです。
我がクリニックに通っていた人で亡くなった方はざっと数えても30人以上いらっしゃいます。そして僕の友達も6人亡くなりました。そんな中、そんなみんなが生きてきた証として閖上の街におばけが出るとしたら、逢いに行きたいと思うのです。
もちろんその「感覚」しかありませんが、閖上公民館に行くと、壊れてぶら下がった窓枠が海風でカラカラと鳴るその音に、「気配」を感じます。
「お~い」
と声をかけます。
「・・・」
もう一回
「お~い!」
と声をかけます。
「は~い・・・」
と聞こえてきた感じがしました。
僕はそこに人の生きてきた魂を感じます。全く怖くありません。ただひたすら暖かい風が頬をなぜて行きます。志半ばで次の世界に旅立たれたみんなが思っているのは、
「閖上の街は復興するのか」
ということだと思うのです。だから、そんな市長の言葉も伝えたい。
「必ず復興させます!」
おばけのみなさん、確かに僕たちは取り組むと約束します。
桑山紀彦
昨夜は陸前高田の市長さんが復興にかける思いを話されていました。仕事も家もないのに残れとは言えないけど、戻って来て欲しい。とおっしゃってました。それぞれの行政の長の方々の頑張りには頭が下がります。陸前高田の市長は娘の高校の先輩と聞いているので何となく特別な思いで見ました。
母の実家が醤油屋なので、同じ番組で、樽が1こ形をとどめていて、その樽に付着している麹を大事に削ぎ取っている姿にまた、お醤油が出来ます様にと祈りました。
閖上中の卒業生の同窓会 楽しみですね。卒業生のみんな積もる話がある事でしょう。
夜の閖上をウロウロして不審者、泥棒に間違えられません様に!
あるものが無くなってしまうと、そこには確かに有るものが在ることに気づきます。それは命、そして愛。それは見えないけれど、確かに在ります。今日、北九州でお会いできるのを楽しみにしています。
今日のニュースで 被災地で 不審火の火事が・・・
耳を疑った。とても 悲しくなった。だれもいないから、泥棒をする。火をつける。
そんなことあっていいのか?いいわけないでしょ(`o´)
善意かも知れないが 花のお兄さん不法侵入、器物損壊だなあ~
消防士さんご苦労様です。いっぱいいっぱいお話して いっぱいいっぱい 泣いてください。桑山さんみたいに
閖中のみなさんの同窓会 無事に開けますように!
たくさんのおばけさんにも 会えますように(気配を感じますように)!!
携帯電話の調子が悪く二日分のコメントです。
邪心のない人には、お化けのほうから会いに来るそうです。
桑山さんは、誠意と熱意で多くの人と親身に接しているからきっと会えますよ。
ワークキャンプの成功、楽しみです。
閖上中の卒業生たちは夏休みのワークキャンプを楽しみにしているでしょう。
桑山さんらしい支援でいいですね。人と人とのふれあいの場作りですね。
夜の閖上を彷徨う桑山さんの姿を想像しました。
きっとお互いの心を感じあう瞬間があると思います。想いは通じると信じています。
細谷亮太先生の『医師として できること できなかったこと』という本の中にも、桑山先生が感じたように 亡くなった者を感じる場面がありました。
亡くした子供たち二百人を背負った気持ちで お遍路に行かれた時の事です。
霧の出た、里まで遠い山道で、小さな子が二、三人で「キャッ キャッ」とふざけながら 遊んでるような音が聞こえた。
亡くなった子供たちが遊びに来たんだな。と思って 全然恐くないし 不気味でもなかった。
とか
急な石畳を歩いていたら スッと 右肩が重くなって のめって転んでしまった。亡くなった子供の有志が誘いあっていたずらしてくれた。
と言うような事を書かれていました。
亡くなった人たちを 身近に引き寄せ 一緒に生きている気持ちでいればいいのかもしれませんね。そうしたら、生きている私達は、頑張れますよね。
わたしの大学
作家・五木寛之が東京へ出たとき、住むところはなかった。
父親には大学へは行かず、働けといわれた。しかたなく一つだけ受けた大学にどうにか合格し、東京駅のホームに立ったときには無一文に近かった。福岡から東京までの旅費以外、父親からの支援はなにもなかったのである。母親は六歳のとき、満州で非業の死を遂げた。
大学の授業料と生活費は自分で工面すると父に力説し、無理やり上京したのである。とりあえずの住家(すみか)は大学構内とした。一週間後、警備員に見つかと大学は追い出された。行くべきところはかった。夜おそくフラフラ歩いていると人気(ひとけ)のない神社に辿りついた。その社(やしろ)の下に入り込み住むことにした。毎日の生活はそこから始まった。生活費と授業料は日雇い労働で稼ぐしかなかった。雨が降る日は保健所で献血をし、血を売った(昭和20年代の制度である)。そんな生活の中でも勉強することは忘れなかった。ロシア文学を大学で学びたいという一念がそうさせていた。
一日の労働が終わり社の床下にもぐりこむと、懐中電灯の明かりでロシア語の勉強をした。こういう生活を三年も続けると、ロシア語が読めるようになっていた。チエーホフが辞書を片手にでも読めるむようになったのである。その間、大学の授業に出ることは一度もなかった。授業料と大学の講義の時間まで作ることは出来なかったのである。後に五木はチエーホフの翻訳本を出すことになるのだが・・・・。
彼はなぜこんなにも頑張れたのだろうか。自分よりもまだ恵まれない人がいることを知ったからである。
マキシム・ゴーリキー・・・・・・。
ゴーリキーは極貧の家に生まれた。小学校は五年で中退。働くことが学校より優先した。生きていけなかったからである。その後ゴーリキーは学校というところへは生涯行くことはなかった。
13歳の頃より世に出ている本という本をかたっぱしから読み漁った。それは、仕事の合間、夜寝る前、古今の名作から東西の作品、経済書、哲学書、歴史書、ありとあらゆる本を読み耽った。彼は誰に教えを請うことはなかった。ただ自分独りで勉強した。彼はこうして偉大な文豪になった。五木はこのことを知っていたからである。
マキシム・ゴーリキーの名作「わたしの大学」に次のような一節がある。
「人生とはひどいもんだ。実際、くだらないし、苦痛に満ちている。でも、それでもなお進んで生きることを放棄するほど、つまらないもんでもないんじゃないのかね」ー村手義治訳ー。
五木はこの一言に救われた。
私たちはどんなことがあっても、何があっても、与えられた命をまっとうしなければいけないのではないだろうか。
和歌山 中尾