ここに一枚の写真があります。
仙台空港がまさに津波にのみ込まれる瞬間の写真です。
防風林がなぎ倒され、貞山堀に最初の波が突き刺さって仙台空港がまさに津波にたたかれる瞬間の写真。取ったのは毎日新聞記者の手塚耕一郎さんという方です。
今回縁あって直接話すことができました。
「あの日、地震の直後すぐに共同通信の記者とヘリに乗って飛びました。津波の情報は入っていました。
仙台空港にさしかかったとき津波が見えたのです。何回か旋回しながらその瞬間の写真を撮りました。もう無我夢中でした。何人もの人が津波にのみ込まれていたとは思いますが、あまりその“人”を意識することなく写真を撮り続けました。しかしあまりにひどい光景だったため、“下はどうなっているのか”が気がかりとなり、その後北釜の集落を何度か訪れました。
北釜の皆さんはとても親切に僕のことを受け入れてくれました。いろんな話ができて交流が深まっていきました。
そのうちに北釜の集会場で4人が助かったという話を聞いたのです。急いで自分の写真を見直してみると、その4人の方が写っている写真があったのです。まさに生き抜いた瞬間の証明写真でした。生き残られた皆さんにもその写真は受け入れてもらえました。こうして、写真を撮るという仕事ではありますが、人とのつながりができるきっかけになっていったのです。
8月13日には北釜の皆さんが慰霊祭を開く予定のようです。その時僕はそこにいたいと思う。それはあの日、あの時上空から写真を撮ったものの責任と共に“縁”を感じてのものです。」
手塚さんなりの思いでこれまで生きてきたのだと思いました。
「でも手塚さんも、あの写真を撮りながら心傷ついてきたと思いますよ。僕も下増田で医者をやりながら心の負担を背負ってきました。でもそんな思いも人に話すことによって軽くなるものです。ぜひ手塚さんもあの日のことを話すといいと思います。」
「そうですね・・・。」
やがていつか津波祈念資料館で開催したい「語り部の会」に手塚さんにきてほしい。そしてあの日の出来事をみんなで語りながら、一人一人の心の中の物語を完成させていきたいと思います。それがすなわち、心の癒しになると思うのです。
これからは積極的に語ることが重要です。そのためには“資料”が必要。まさに手塚さんのあの空撮写真は多くの人の「物語化」のプロセスに有効です。あの一枚の写真の中に少なくとも僕は8人の知人の“死”と、3人の“生き長らえた”物語が存在していました。
一枚の写真でこうして語りが進んでいくのです。
大切な写真は後世に継がれていくことになるようです。
桑山紀彦
被災の現場で事実を受け止められている方々の勇気と、心の負担の重さはいかばかりか。
お心をどう保たれていらっしゃるのでしょうか。
お話されることで心が軽くなるのですか。
手塚さんの写真に残された確かな記録に、生きることの尊さを伝えられると思います。
今生きている人達皆が日々大事に過ごされますように。
人の家に入り物を取ることなどもう止めて欲しい。
被災されている皆さんの環境が変わりつつある今、体調を崩されることなく、暑い夏を越えられますように。
人それぞれに 役割があり それぞれに それをもくもくとこなしているんですね。
7月2日に 放送されたミ・ラ・イという番組に 大阪が誇る長谷川義史(絵本作家)さんが 出演しました。
ブータンの村の子どもがたちと交流し 一軒の家に泊めてもらっていました。90%以上の人が幸せと答えていました。
私の子どもの頃を 思い出しました。得たものもより なくしたものの方が 多いような気がしました(こころの中で)。
大変な思いをされた皆さんが 語られることは 私にとって今を 生きる私への 導(みちび)きなっています。
ありがとうございます。
桑山さん 大変でしょうが いろいろと 知らせて(書いて)ください。
昨夜 と言うか夜中に更新されたブログを読みながら寝てしまっていましたが、通勤電車に乗って、今、読んでみると、昨日読んだのと何か違う(>_<)と困惑しながら読みました。先日帰りの電車の中で 学生らしき二人が写真と映像について討論してました。片方の子は震災もあの動く映像をみたからみんな色々感じたんだ!私も 加わりたいと思いながら、彼の先生はその一瞬を捉えた写真こそ!と熱弁されたのだそうです。それに対して一人の子は全面反対らしく語っていました。でも、写真で撮る一瞬って凄いよ!って言いたかったけど、飲み込みました。
自衛隊の撮影した津波が押し寄せる映像も凄いですが閖上中の生徒さんの映像も、非難されてその様子を見ているしかない住人の皆さんの気持ちが伝わって来て、写真、一枚一枚にその一瞬があり色んな感情や気持ちが流れるでしょう。津波祈念資料館が、目の前にないけど瞼を閉じると浮かんで来る様じゃね!
最近の通勤電車 サマータイムの影響なんかな、調布位までの人の数が少くて、なんだか座れる確率が高いです。ちょっと嬉しい(^-^)いや、ぶち嬉しい!そして、今日は少し涼しい(^-^)v
ふるさとの風景と藤沢周平
たとへば、ふだんは聞こえない遠くの汽車の音が聞こえてきた、静かな雪の夜道とか、葦切(よしきり)が終日さえずりつづける川べりとか、とり入れが終わって、がらんとした野を染める落日の光とか、雪どけのころの、少しずつ乾いて行く道とか、雑多な風景がその中に詰め込まれている。
そしてそういう風景が単独で存在するわけではなく、少年倶楽部や譚海(たんかい)といった少年雑誌、姉たちのお古の少女雑誌、「怪傑黒頭巾」や「亜細亜の曙」、啄木や下総の歌人長塚節、カール・ブッセの「山のあなた」、そしてジャン・バルジャン。さらに牧逸馬の「この太陽」、吉屋信子の「地の果まで」といった小説などが、これらの風景とわかちがたく結びついて、ひとつの心象風景を形づくり、私の中に存在しているわけである。-藤沢周平著「闇の穴」あとがきよりー新潮文庫刊
ふるさとの風景を藤沢周平はこのように述べているが、ふるさとは人それぞれに存在するが、東北の人々にとって、津波はそれらすべてを奪ってしまった。多くのはかりしれない傷を残して。
藤沢周平の一人娘、遠藤展子さんは会社勤めをしながら、男でひとつで(生後八カ月で母は病死)子育てに奮闘した父をこのように述べている。
「あいさつは基本」、「自慢はしない」、「普通が一番」。やさしいけど父のカタムチョ(頑固)な姿は、ふるさとの風景とともに、こころに刻まれた。
和歌山 なかお
ご無沙汰しております。被災地の事を考えない日はありませんが今自分の置かれている所で少しずつ動いてます。ブログの更新いつもありがとうございます。心ある人がどんどん繋がりながらみなさんの状況が少しでも良い方向へいっていただくことを願うばかりです。いつも心で応援送っております。毎日様々な人がコメントされそれを読むのも心があたたかくなります。みなさんありがとうございます。
空撮はやはり距離感があるのですね。
手塚さんは正直に「あまりその“人”を意識することなく写真を撮り続けました」と語っています。
でも、その後、気になって北釜の集落を訪ねられた。真摯に向き合う姿に胸を打たれます。
報道に関わる方はいつも胸の中で揺れているんですね。大変な職業だと思いました。
一枚の写真が語るもの、それを大切にしたいです。
このような話を聞く度に、その場にいなかった自分を呪わしくさえ思えてきます。
無論、このような感情は実際に被災してない者の身勝手な発言であることは重々承知しています。
私の心は常にひどくわがままです。わがままゆえに、偽善の塊です。
そのことは頭で理解できても、心が受け入れようとしません。
だから、何度聞いても自虐の念しか残りません。
悔しいくらい、かなしいくらい。
未だ自分の中で整理がつきません。
被災してない私でさえ、そう思うのですから、被災した方々の心中、察するばかりです。
ましてや、無意識下にあったにせよ、人の生死を撮影してしまった心の負担はいかばかりのものか?
使命とはいえ、あまりにも過酷な運命を感じざるをえません。
ただ、それが運命なら、自力で解き放つことができるはずです。
今はただ、1日でも早く運命から自由なることを願っています。
空爆で人が死んでも殺したという実感はないが、近距離の銃撃戦で人が死ぬと良心の呵責に耐えられなくなる。それが普通の人の感覚です。
記者さんも上空ではプロ意識で無心に撮影し、地上を見て良心のある人間にかえったのでしょう。仕事の立場を超えて人とのつながりを大切にする、きれいな心を持った人だと思います。
是非記録と語りは残してください。