菅野さんのキュウリ

キュウリ農家の菅野(かんの)さんの家を訪ねました。

 前からずっと気になっていた菅野さんはまだ若いのに
「俺、キュウリ一本でやっていきます。おいしいキュウリつくることが俺の人生です。」
 と言いきって、様々な困難を工夫で乗り越えてきました。そのすがすがしい姿勢が大好きでキュウリ談義や農業論になると意気投合して二人でずいぶんと熱く語っていたものです。
 1ヶ月が過ぎた頃、ふと
「あれ?菅野さんどうしてるかな・・・。」
 と気になりました。何せ仙台空港の周りで手広くキュウリ農家やっていますから、ひょっとして菅野さん自身も被害に遭っていたらどうしようと思ったりもしていました。でも気丈な人だから何とか乗り切っているんじゃないか、と思って忙しさにかまけて時間が過ぎていきました。
 今日、夜に少しだけ時間ができたので、住所を辿って菅野さんの家を訪ねました。大きな農家で、その脇に菅野さん若い夫婦のモダンな家が建っていますが、灯りが消えています。いやな予感がしました。
 母屋にはご両親が住んでいるはず。
「ごめんください~!」
 誰も出てきません。奥には灯りが見えます。
「ごめんください~!」
 返事がありません。でもふと横を見たらチャイムが隠れていました。鳴らすとお母さんが出てきてくれました。
「ああ、国際さんの先生。」
「はい、菅野さんはどうしてます?ずっと連絡できなくて・・・。」
「はい、息子も嫁も孫たちも、命は助かりました。でもね、キュウリは全滅でした。ひどいものです。夫が開墾し、息子が精魂込めて広げたキュウリ畑はすべて津波に沈みました。ガラスでつくったハウスも全壊で、散らばったガラスでなかなか中に入っていけないんです。
 夫も息子も悩みました。いろいろとやってはみたんです。塩気を抜くには水を使うしかないんですが、まさか貴重な市の水道水を使うこともできないんで、井戸水を使おうとしたんです。そしたらその井戸水ももう塩水でした。もう打つ手がありませんでした。畑の塩気を抜くことができないんです。
 そしてみんなで話し合い、ついにこれを機会に農業を辞める、終農することにしました。夫ももう年です。これほどひどい被害を乗り越える体力はありません。息子は一番苦しんだと思います。でも、みんなで話し合った末に会社員になる決心をしました。今、ある医療法人に就職して、東京で5ヶ月の研修を受けています。やがて仙台にも支部があるので、帰ってきてくれればなあ、と思っています。」
「そうでしたか・・・。」
「はい、これが私たちの結論です。息子はいい先生と出逢って、“俺農業やる気出てきた、がんばる!”って言ってたんですが、こんなことになってしまって・・・。」
7/7-1
 つぶれたキュウリ畑
 
 また一つの人生が大きな転機を迎えました。打ち上げられた船に絶望しながらもあきらめず立ち上がる漁師の太さんもいれば、悩んだ末に農業から離れる人生もあります。でも、大切なのは、
「自分で決めたんだ」
 という思いだと感じました。それがどこかにあれば、また人間は新しい何かを探せるんだと思います。
 でも、土地は土地。
 自然の力で奪われたものもあれば、やがてその自然の力で得ることもあるはず。数年後に土が自らの自浄能力を得てもう一回キュウリを育てられる質を備えるかもしれません。その時、菅野さんは、
「もう一回土に還るっぺ。」
 と思うかもしれないのです。
 今は会社勤めしながら実はじっと機会を待つ。そんなために「今」があってもいいはずです。これからも辛くない範囲で菅野さんと接点を持ちながら、いつの日かキュウリの専従農家に戻る日を待ちたいと思います。
 菅野さんはいつも言っていました。
「先生、カッパ巻き好きだっていってくれたよね。カッパ巻きはねキュウリの味で決まるんだ。のりとご飯にくるまれたその真ん中にあるキュウリがよ、カッパ巻きのすべてなんだ。キュウリがまるで、“俺のこと食べて下さい!”って言ってるみたいに、オレ聞こえるんだ。
 先生もよ、カッパ巻き食べるとき聞いてみて。絶対にオレが作ったキュウリは“オレのこと食べて!おいしいよ!”って言ってるの聞こえっから。」
 それ以来僕は良くカッパ巻きを頼むようになりました。
 もちろんその中のキュウリは菅野さんが作ったキュウリではないかもしれない。でも、キュウリ一本に絞って専従農業をやってきた菅野さんの心に近づける気がして、カッパ巻きを食べるときはその真ん中のキュウリにいつも気持ちを向けてきました。
 菅野さん、今は会社勤めだよね。時期を待っていると信じるよ。そして必ずあの広大な農地でキュウリつくって、僕の大好きなカッパ巻きにキュウリを入れて下さい。その日まで僕は待っていますから。
桑山紀彦

菅野さんのキュウリ」への7件のフィードバック

  1. テレビの番組で、いわき市の山奥で農業を営んでいらっしゃる子沢山家族のお父さんが、「農業をやりたくても、続けたくても、震災で出来なくなった人がたくさんいる。自分は幸い続けられたから、そんな人達の分まで楽しんで頑張ります。」とおっしゃってました。家の実家に来て下されば、土地はあるんだけど… 会社員として、今は頑張られる事でしょうね。
    ファイト一発!

  2. 苦しい人生の選択を迫られた きゅうり農家の菅野さんの事。隣の家の方のように感じて、読んでいました。漁師の正さん、太さん、の事も。亮子さん、ミキ子さんの事も。気が付けば、親戚のように心配になっています。桑山さんの 伝えてくださる事のお陰で、被災地の方々を近くに感じています。何も出来ませんが、いつも、「ずっと忘れないで」心は寄り添っています。

  3. ほの悲しくせつない話ですが、悲惨さを感じないのは菅野さんの強い意志と再起の行動力だと思いたいです。
    誇りあるキュウリ作り復活・・・勝手にハッピーエンドを期待するのは無責任ですね・・・・。
    先日、被災地の6年生と瀬戸内寂聴さんとの対話を見ていたら、桑山さんとまったく同じことを仰っていました。
    【今、出来る普通のことをやる・生きることは残った者の使命だ(「代受苦」というのだそうです)】

  4. 「以前と同じ」も「心機一転」も価値は等しい、と思います。
    …神様は選別をしないんだな、と改めて感じてしまいました。生きている者が選びとるように、とだけで…。

  5.   嬉しい話し
     勤め始めた百貨店では、研修期間が終わってから書籍売り場に配属されました。
     夏の終わりのある日、売り場で、井上ひさしさんの長編小説「吉里吉里人」のサイン会が開かれることになりました。エスカレーターの脇にテーブルと椅子をセットしたサイン・コーナーが設置され、しばらくすると、井上ひさしさんがお見えになりました。(中略)
     サイン会の時間は、社員にとっては勤務時間中で、列に並ぶことはできません。それで、自分の名前を書いた紙を本に挟んでおいて、井上さんが控室に戻られてから、まとめてサインをしていただくことになっていました。
     私も本を買い「小菅展子」と書いた紙を挟んで、担当の人に依頼しました。仕事をしながらも、ときどき遠目でサイン会を眺めていました。やがて閉店時間になり、サインを頼んだ社員には、本が配られました。どんなサインかなと楽しみに表紙を開くと、そこには、
    「小菅展子様
     藤沢周平(小菅留治)様    井上ひさし」
     と書いてありました。バレていた!驚くとともに、井上ひさしさんの粋なはからいに嬉しくなりました。家に帰って、父に早速、本を見せました。父も笑顔で「よかったな」と言ってくれました。
            -遠藤展子著「父・藤沢周平との暮し」よりー
     井上ひさしと藤沢周平にまつわる嬉しい話しである。二人は同じ東北、山形の出身である。
        和歌山   なかお
    p.s 明日は奈良女子大へ伺います。
      落葉先生、桑山先生、後藤さん、よろしくお願いいたします。

  6. きゅうりの専業農家だったんですね。
    仙台市に近いから大規模になさっていたんでしょうね。
    いつか畑の塩分が抜けたらまた農家に戻れるかしら。
    菅野さんのきゅうりのかっぱ巻き、待ちたいですね。
    土地がそのまま残ることを願っています。

  7. お久しぶりです。
    奈良女子大学附属中等教育学校4年の奥です。
    明日、模擬試験があるので、少し遅れてしまうのですが、
    講演を聴きに伺います!
    お気をつけていらっしゃって下さい。

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