「娘のクルマは見に行けなかった。」
お父さんはがっかりと肩を落としてぽつりと言いました。
「今のうちに見ておかねえと、片付けられちまう、そう思ってはいるんだけどよ。どうしても見にいけねえ。
見ると涙が止まらなくなるのは想像できるんだ。でも、そんなことで見に行けねえんじゃないんだ。女房が持ってきてくれたクルマの中の遺品はちゃんと見れたもの。もちろんザアザア泣いたけどよ。
きっとよ、ひどく壊れたそのクルマを見たらよ、オレの中の支え棒が折れちまうような気がするんだ。」
「支え棒?」
「うん、まだよ、どこかで生きててひょっとよ戻ってくるんじゃねえかって思ってるんだよ。実は・・・。
この前もいい夢見たんだ。うちの娘がよいい顔して出てきてくれたんだ。なんか嬉しかった。起きてからもずっと気持ちが温かくてよ。あんな気持ちになれたの、久しぶりだった。だから、まだどっかで記憶とか失って生きてんじゃないか、って思えてくるんだ。いつか記憶が戻って、“お父さん!”って帰ってくるんじゃないかってな。」
「手がかりは?」
「ダメだ、まだみつかんねえんだ。海に持ってかれちまったっていうやつもいる。でも見つかってねえんだから誰もホントのことはわかんねえ。だから、どこかで生きてるって思っていけるんだ。クルマ見たらよ、きっと“ああ、やっぱり亡くなった”って思うんじゃないだろうか。だからオレ、クルマ見に行けねんだ。」
こうして心の中の時間を止めて、わずかな希望を持ち続けようとする人がいます。クルマを見に行くのがいいのか、見ない方がいいのか、僕にもわからないところでした。でも、きっとどこかで受け入れていく「点」がやってくるのかもしれないと思います。それまでは無理をしてクルマを見に行くことはないのではないか、そう思うのでした。
今日も夜半に雨が降ってきました。
雨の日でも夜の閖上には走るおばけが出るのでしょうか。きっと、そこにいてくれるような気がします。
桑山紀彦
お父さんの気持ち分かる気がします。車を見たら、僅かな希望も打ち消される。行方不明って辛いですね。桑山さんのお友達のお父さんの言葉が思い出されます。
娘さんを愛しむ優しいお父さん。死を認める辛さは想像できません。
クルマが整理されてしまったら、何時どのように気持ちの整理がつけられるのか心配です。
行方不明の試練は、時間がたつにつれ過酷さを増すような気がします。
最愛の人を亡くしてしまった人の気持ちを考えると言葉もありません。津波という想像だにできない出来事によって起こってしまったとしても。
仏教では「色即是空、空即是色」といいます。頭で理解してもこんなことをこころで受け入れることはできません。
「般若心経」の言葉です。この世のすべては「色」と云っています。われわれ人間も、動物も、植物も、気体も液体も、すべては「色」であると云っています。その「色」はすなわち「空」であると説いています。すべては空しいものだというのです。だから「色」に捉われてはいけないと教えているのです。頭は理解できてもこころが受け入れることができないのが人間です。
そんな人々と対峙する桑山先生は大変だと思います。心療内科医の仕事とはいえ、身の回りに多くの惨劇が満ち溢れています。
ときどき思います。海外の紛争地域や被災地域で医療に従事する桑山先生の東北で、なぜ大震災が起こったのかと。西日本ではなかったのかと。
バカで、とんまで、間抜けな僕は、関西で平穏無事に暮らしています。どうして大震災が、津波が東北なのかと。
被災地域の人々の悲しみが、どうか早く癒されることを切に願って止みません。
和歌山 中尾
お一人おひとりに、それぞれの想いがあふれていることを、桑山さんの言葉から胸に刻んでいます。
九州で平穏に暮らす私たちにも、日々、信じられない程に人の気持ちを傷つける心ない人々に接することが、実はあまりにも多いことに閉口しています。幸せボケですかね。
お互いに、あとほんの少しの想像力をもって相手を思えば、そんなこともなかろうに…。
ここに来て、桑山さんと皆さんのコメントに触れて平常心に戻り、自分自身を確認させて頂いてます。
皆さま、ありがとうございます。暑くなりましたので、より一層、お気を付け下さい。
では またあした。
行方不明は辛いですね。
「どこかで生きててひょっとよ戻ってくるんじゃねえか」と思ってしまいます。
きっとお気持ちが落ち着かれるまで長い年月がかかるのでしょうね。
桑山さんには酷なお願いかもしれませんが、ずっと寄り添ってあげてほしいです。