昨日外来に来てくださったのは、小平さんご夫妻でした。
もう外来は1年近くになるのですが、いつもご夫婦でいらっしゃって仲がよいのです。ご主人の義正さんは今年70歳。奥様の陽子さんは62歳。息子さんや娘さんは既に自立され、二人は閖上の街で日々ゆっくりと過ごしていました。義正さんは生粋の閖上生まれ閖上育ち。定年退職をされたあとは、好きな山に登ったりして第3の人生を楽しんでいらっしゃいました。
奥様の陽子さんは宮城県北部の生まれで、結婚でこの閖上に引っ越してきたのです。去年の秋は二人で北アルプスに登り、僕の故郷飛騨高山に寄ってきたという話で盛り上がりました。義正さんは8年前に手術で胃を全摘しましたが体調は決して悪くなく、クリニックに来ては内科でビタミンの注射をし、心療内科で世間話をして帰って行くというご夫婦でした。
「だまされたと思って~」
と僕の薦めで近くの名取エアリモールの中の映画館で映画を見てきたあと、
「いや~この歳になって映画に行くなんて思ってなかったけど、なかなかよかったよ~先生!」
なんて照れながら奥様とデーとしたりの日々でした。
あの日、あの時間お二人は家にいました。
ものすごい揺れで海育ちだった義正さんは直感で感じました。
「これは津波が来る。」
急いで陽子さんに逃げようと言いましたが、
「本当に来るの?もう少し待ちましょうよ。」
と陽子さんは渋りました。しかしいつになく真剣な義正さんの勢いに圧されて、二人は家を出ました。すると暗雲が垂れ込めていやな雰囲気です。土手の向こうの名取川が何か騒がしくなっています。
「これはまずい、本当に来る!」
二人は手を取って走り出しました。まず最初に向かったのは閖上公民館です。でも、そのグランドにいると誰からともなく、
「ここでは危ない。閖中に逃げるぞ!」
と言い出します。義正さんはいよいよ津波の到来を臭いで確信し、陽子さんの手を取って閖中に走りました。その時です。
バリバリバリ!
音を立てて真っ黒な波が貞山堀を超えて迫ってくるのが見えました。義正さんは履いていた閖上公民館のスリッパを脱ぎ捨てて、裸足で走り始めました。でも陽子さんがついて来れません。
「陽子!走れ!」
「でもあなた、わたし走れないよ。」
「何いってんだ!走れ!」
二人は走り始めました。
公民館から閖中までは直線距離で500Mはあります。途中で陽子さんが転びました。
「陽子、立て!走るんだ!」
「だってあなた!もう無理よ!」
義正さんは陽子さんを抱きかかえ、閖中を目指しました。もう後ろは振り返れません。石油と潮の混ざった臭いがどんどん肩越しに迫ってくるのです。
「振り返ればひるんでしまい、自分たちは津波にのみ込まれる。」
義正さんはそう確信しました。だから一心に閖中の建物だけ見て走り続けました。時間にして3分。その3分の長かったこと。
北に面した昇降口にたどり着くと上からみんなが、
「早く、早く上がってきて~!」
と叫んでいます。陽子さんを降ろして二人は階段をかけ昇りました。その直後、
ズザー!
津波が到来しました。
「あのまま閖上公民館にいたらよ、そんで後ろ振り返ってたら先生とは会えなかったべな。」
義正さんは語りました。
こうして二人は生き残りました。持っていたのは免許証の入った財布だけでした。アルバムも、想い出もすべて失い家は土台が残っていただけでした。
それ以降も義正さん、陽子さんはいつも話しに来てくれます。その都度ゆっくりと話を聞いてきました。あまり話したがらない陽子さんも少しずつ話してくれるようになりました。そしてこの生々しい「語り」が完成していったのです。
僕は何度も何度も閖上に通いながら、ある日「閖上公民館」と書かれたスリッパを路上で見つけました。きっと義正さんの脱ぎ捨てたものかな、と思いました。それはちゃんとビデオに収めてあり、作品にも出てきます。
昨日の外来で、義正さんと話したとき何気なく、
「義正さん、これからどうしましょうね。」
と聞きました。そんなことも聞ける雰囲気になっていたのです。しばらく考えた義正さんは、
「70歳になってもう家なんて建てられない、もう死ぬまで仮設住居かアパート住まいだ、と思ってきたけどね。最近“もう一回家を建てよう”って思えるようになってきたんだ。」
「それは、どこに?」
「そうだね、陽子は”もう閖上には戻りたくない”って言うんだ。でも、ボクはやっぱり閖上に家を建てたいな。そりゃあ津波は怖かったけど、あと1000年は来ないと思ってね。だから出来れば閖上にもう一回家を、建てたい・・・。でも70歳のワシには銀行もお金貸してくれないだろうから、今持っている蓄えをみんな使えば小さいながらに家らしきものは建てられると思ってね。そこで使ったら、もう死ぬときは蓄え“ゼロ”だけどね。」
義正さんの70歳の決心です。
そして僕にもまた一つの夢が。
正義さんが小さいながらに家を建てられたら、キッチンテーブルは僕からのプレゼントを受け取ってもらいたいな。その時は本当は家具職人だった親父に創ってほしかったけど、今は天国。だから、富山県は砺波で一生懸命家具を創っている友人の宝田さんに発注だ!
色も話し合って、とびっきり素敵なキッチンテーブルセットを送りたい。
そういえば明後日は江里ちゃんの家に食器棚とレンジ台が届く。余計なお世話かもしれないけど、気持ちで受け取ってもらっています。ここで出逢ったもの同士が津波を乗り越えて親戚付き合いできたらいい。そんな思いでいくつかのご家族と付き合わせて頂いています。そうやって名取にゆっくりと「親戚」が増えてきました。
桑山紀彦
桑山さんは本当良いお医者さんですね。医師を超えています。医術は仁術と言いますが地で行ってますね。何人の人が救われるか・・・
今日の毎日新聞に、これから誰にでも訪れる可能性がある「幻滅期」を迎える~怖い記事が載っていました。
次々に襲う荒波で息が抜けませんね!
人ごとコメントですみません。
私の父は4年前に癌で亡くなりました。74才でした。
あと3ヶ月の命とお医者さんに言われたけれど、父には言えませんでした。
きっと父はわかっていたと思います。
でも最後まで夢を持ち続けていました。いっぱいいっぱい夢を持ち続けていました。
人ってすごいですよね。何才になっても夢を持つことができるのですから!
義正さんの夢が1日も早く叶いますように!
名取の皆さんが 東北の皆さんがもう一度夢を持ち 叶えられるようになりますように!
〝「よけいなお世話」かもしれないなぁ。〟
そう思って以前は、遠慮していた事 を 思いきって勇気を持って やって差し上げてみよう。声をかけてみよう。
震災後から、そう思うようになりました。
被災地から引っ越していらしたご家族、震災で御両親を亡くした大学生。
被災地から遠くても 身近に 震災のために悲しい気持ちを抱える人が いらっしゃいます。
身近な方に 「よけいなお世話」を ちょっとさせて頂く気持ちで いようと思います。
桑山さんのように 親戚をゆっくり増やして行きたいです。
昨日ボランティアでカウンセリングして下さる方にお会いできました。
なぜ皆さんこんなに親切にして下さるのか。震災後ずっと考えていました。大変ありがたく、今こうして暮らせるのは皆さんのおかげです。しかし私には、同じことはできないと思います。
カウンセラーのかたは、私のほうが励まされるのですよとおっしゃいました。いまひとつ実感のない私。
ご自身の過去のことを少し話して下さり、信じられないこと
がだれの身にも起こることを現実に体験されていました。
人は一人で頑張れないこと。苦しいときは、頼ること。体験したことを苦しんでいる人に話して、いつか役立ててもらえればよい。そんなことを感じさせられながらカウンセリングは終わりました。
この震災も突然起きた信じられないことでした。
ふらっと立ち寄ったお寺のお坊様が、「この震災で皆さん生きることの意味を考えた人も多いでしょう。自分だけ生きるのではなく、共に生きることを考えてみましょう。」と話されていました。
一人で頑張らなくていいんだなとやっと思えた日になりました。
桑山さんのブログに健康な心を教えられている気がします。
頑張らないで、出来ることをやってみたいです。
小平さんご夫妻の物語、義正さんの陽子さんへの愛が命を救ったんですね。助かって良かったです。
義正さんの家を建て直すという夢に桑山さんも贈り物を、と夢を重ねることができるんですね。
地域で「親戚」のように心が通い合う関係が作れるっていいなと思います。
差し詰め桑山さんが本家かな?新しい系図ができそうですね。
お忙しい毎日、どうぞ体調を崩されませんように。
昨日、震災で親を亡くしたあるいは行方不明の子供が1101名だと新聞にありました。私の子供の通っていた小学校と中学校の児童・生徒を合わせた数と近いかも。反対に子供を亡くした親もかなりの人数いらっしゃるのだろうなぁと思って、また切なくなってきました。新聞には昨年度閖上中の支援学級で支援員として働かれていた方の言葉もありました。今朝は、北海道に流れ着いたバレーボールの話がテレビから聞こえて来たので見るとそのバレーボールは、昨年総会後、宿泊した旅館で一緒になった気仙沼向りょう(りょいがわからん!)高校のバレーボール部の物だったそうです。思いがけず気になっていた高校の名前を聞いて生徒達がどんな様子か聞けて嬉しい朝でした。
沢山涙を流して悩むけど、義正さんの様に、一人、また一人と立ち上がっていく人がどんどん増えていきます様に!
通勤電車、私の所定の位置にすでに立っている人がいて、今日はいつもより混雑するのかも…嫌だぁ…
座って寝たい。 昨夜あんなにねたけど…
ラルさんのコメントに、心を動かされました。
「桑山さんのブログに健康な心を教えられている気がします」という文章には、特に、今まで何気なく感じていたことを一言で言ってもらって、『なぁ~るほど!そうよね』という思いです。桑山さんをはじめ、ブログにコメントされている方々の思いを読むと、優しさが溢れているというか、まさに“健康な心”からでてくる言葉!だから、前向きな気持ちになれるんです。桑山さんの親戚つながりは凄いことになりそう・・・ブログに書き込んでいる人たちもみんな、どこかで繋がっているひとたちですもの。
ラルさん、いつの日かきっとあなたも、誰かの心に何かを運んでくる人になっていますよ。現に、私がラルさんから大事なものをもらいましたから。
「広末涼子と、ツーショットの写真撮ったよ」
「えっ、なんっですって。すごごおおおい。なんでヒロスエとツーショットなんですか。広末涼子が、コンサート会場に来ていたんですか」
「まあ、騙されたと思ってこの写真、見てよ」
「写真見たい。見せてよ」
「どうぞ、ごゆっくり、ご覧になってください」
ヒロスエとの写真を差し出した。
「なにこれ、広末と写ってるのかと思っていたのに。あっーー、びっくりした」
写っていたのは、広末涼子が福山雅治にコンサートの成功を祈って送った花束だったのである。
福山雅治・横浜アリーナコンサートのライブ会場のロビーの会場である。花束は広末涼子だけでなく、僕が確認できただけでも、柴崎コウ、島崎和歌子、宮迫博之、松島奈々子等が送った花束に埋められていたのである。
日曜日はFM東京の「福山雅治スズキトーキングFM」が放送される。会場に入るとこのオンエアーが流れていた。ライブ終了まで続く。
五時に放送が終了すると同時にライブが始まった。オープニングはドラマ「ガリレオ」のテーマの「kissして」である。横浜アリーナは一気に興奮の坩堝へと化した。
それは最高の音楽、最高のパフォーマンス、最高の舞台演出、3時間が夢の間にまたたくうちに過ぎる。
大河ドラマ「龍馬伝」が終了し、今年はライブツアーの年であるそうだ。ツアーの途中に東日本大震災が起こった。一時、ツアーの中止を余議なくされた。このままライブツアーを続けていいものか、どうしたものか福山くんも悩んだそうである。スタッフと何度も話し合い、その結果、出た結論は「いままで元気だった者は、いままで以上に元気にやることが大切なのではないだろうか」ということになったそうである。ツアーを再開。しかし、震災以前のツアーとは明らかに違っていた。横浜アリーナには「復興支援シート」が用意され、入場料を義援金として寄付をする。それ以外にツアー全体の収益の一部も義援金として寄付する。
横浜アリーナの入場人員は1万1千人。1人の入場料は8000円であるから、これが、水、木、土、日の四日間続く。このライブティケットはすべてソウルドアウト。はたして何億円の収益になるのか、義援金の額もすごいことになるのであろう。
ライブ途中、最高潮になると、いつもなら水のシャワーのパホーマンスがあるのであるが、水の貴重ないま、「いかにコンサートとはいえ、水を撒くことはできない」と福山くんは言った。その変わりに飴ちゃんのシャワーとなったのである。その後、福山くんの号令のもと震災で亡くなった人のため、1万1千人が一斉に一分間の黙祷となった。福山くん、きみは、えらい。
三時間のライブ終了、アンコールには、「桜坂」。ピンスポットとに照らされた福山くんがアコースティックギターだけで、スローバラードを薄紅色に歌い上げた。
「君よずっと幸せに、
風にそっと歌うよ、
愛は今も愛のままに、
揺れる木漏れ日、薫る桜坂
悲しみに似た薄紅色
君がいた 恋をしていた・・・・・」
誰もが皆、福山くんに、涙した・・・・。
こころに感動を秘め、横浜アリーナを、後にした・・・・・。
和歌山 中尾
今日もとても良いお話が聞けました。親戚付き合いのような関係。素敵ですね。老齢の方が希望を持って過ごされる姿にも頭が下がります。先生は心のつながりをたくさん作っていらっしゃいますね。目には見えないけど生きていく上でとても大事だなと思いました。今日もなんだか心があったかです。ありがとうございます。
ご主人が諦めなかったことに、ありがとうって思いました。
お二人で支え合いながら、たまに桑山さんに会いながら暮らしてゆけたら、それだけでも幸せを感じられそうなご夫婦ですね。
ここぞのパワーを振り絞って奥様を助けられたご主人の愛情に涙がでました。
夢が叶いますように。。
先生、なんて素敵なご夫婦でしょう
私がもしそうなったら
うちの夫は抱えて一緒に逃げてくれるだろうか
と
思いめぐらせてしまいました。
70歳で走り続けて逃げられたって
素晴らしいですね。
あと20年後に
何があっても走り続けられる体力を
持っていられるように
少しは体を鍛えないといけませんね。
夫に置いて行かれないように
夫は走るのが好きで
私は苦手ですから。
砺波の地名を聞いて
懐かしく思いました。
私は隣接の南砺市の出身です。
帰省するときは
以前は砺波インターで降りていました。
家具職人さんのお名前も
地元ではよく聞く名前です
高校の同級生にも同じ名字の方がいました。
素敵なご夫妻に
プレゼントできる日が
早く来るといいですね。
義正さんの夢の日記を読みながら、
実家の両親のことを考えていました。
被災地からは離れていますから、被害はなかったのですが。
父は母をそんな風に励まして逃げてくれるだろうか?と。
決して仲がよい両親ではありませんが、でもどちらかがいてこその両親なのだと信じていますから。
素敵なご夫婦ですね。そして、その夢に何かをしたい。と思う桑山さんの気持ちもとっても素敵です。町中に「親戚が増える」いいですね。
うわ。
いきなりウチの名前が出てびっくり。もう!桑山さんも人が悪い。
正直、桑山さんの親父さんのような腕はないです。テーブルもどっちかいうと苦手分野だけど。
機会があれば、精一杯やらせていただきます。何よりも、友達の友達(?)が、義正さんの「元気」の復興を祈っているということをお伝えいただければ幸いです。