あるはずなのにないもの


今朝、岐阜の公演から戻るべく仙台空港に降り立ちました。まだまだ仙台空港は発電機での運営なので、再開したといっても全体の20%にも満たない復旧具合だと思います。それでもみんな必死に復旧を急いでおり、電柱も手前2キロの所までは立てられています。しかしまだ電線さえ張られていません。そのため、中部国際空港便は全日空でいえば通常6便飛んでいるはずなのにたった1便のみ。やむなく昨日も名取には帰れず、伊丹空港に移動しておいて、朝一番の飛行機で戻ってきました。さすがに伊丹空港便は全日空の場合2便ありますが、通常6便です。いつになったら戻るのか。こんな時にやっぱり被災地にいるんだということが痛感させられます。

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 その上空から見た名取の大地。手前の黒くなった田んぼが津波をかぶって塩害に苦しむ田んぼです。その奥の方、山の方向に水が入った田んぼが見えるでしょうか。同じ町でも田植えができる所とできない所で分かれているのです。切ないし、哀しくなってきます。本当だったらいつもはここに田植えの水が入り、美しい湖のようになるのに。今年は黒茶けて焦げたようです。どれほどのお百姓さんがこの苦渋に悩んでいるか。でも、自然を相手にしてきた人たちは本当に強い、強靱な心を持っていると思います。漁師の正さんだって言っていました。

「自然が相手のことだから、俺たち人間はかなわない」

と。そしてあきらめようと思ってきたけど、その自然に打ち勝つのではなく、自然とまた同居しようと思って正さんは自分の漁船を直し始めたわけです。だからお百姓さんも強い。

「米が作れねえと、本当に落ち込むよ。毎日気持ちがふさぎ込んでくる。でもそんなんじゃダメだって思っていま、ひからびた上の5cmの土取り除いて、畑にしようってがんばってんだ。」

 と語るのはお百姓さんの喜善さんです。そんな言葉を聞くたび、やっぱり自然相手に生きてきた人は強いなあ、と思う。まず一旦受け止めてその後ゆっくりと行動に出る。そのしたたかさがきっと自然と付き合う方法なんでしょうね。

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 飛行機が着陸の方向を珍しく変え、僕たちの下増田地区の上を飛びました。そしてびっくり。僕たちのクリニックがある場所があたかも川の中州のように白くくっきりと残っているんです。その周りはあの赤茶けた津波の被害が押し寄せているのに、本当に僕たちのエリアだけが取り残されたように、被害を免れているのがよくわかりました。それでも30cmのみズがきたのは事実ですが、本の小さな川の中州のようなところに、たまたま拠点を置いたから助かっただけなんだということが上空からわかり、また気持ち新たに「生き残ったものの責任」を果たそうと思ったのです。

 そして空港に降り立ち、ギターやら何やらを受け取り出口へ向かったとき、哀しみが押し寄せてきました。

「ああ、いつもあの入り口の所に朝日パーキングの菊地さんが、クルマの鍵を持って出迎えてくれていた」

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でも菊地さんはもういないんです。みんなを避難させたあと、家に「書類とってくる」といって相の釜の自宅に戻り、津波に襲われて遺体で発見されました。安置所で変わり果てた姿のまま、ようやく家族に見つけてもらったのはあの日から40日もたっていました。

「いるはずの人がそこにいない」

そんな悲哀を抱えて人が生きています。肉親ではないけれど、親しい友人を何人かか亡くした僕はいつの間にかそれを意識しない日々を送っています。でも折に触れてその人の足跡に出逢うたびに、

「ああ、あの人がいない」

 と思ってどっと落ち込むんです。そんな哀しみがいつか少しずつ薄れていくことを願いつつ仙台空港を出てクリニックに向かいました。

 

桑山紀彦


あるはずなのにないもの」への6件のフィードバック

  1. 今日は厚い、間違った暑い一日でした。私の使う京王線はクーラーはほとんど使いません。窓を開けたいけど、背が低くて…隣りの方が開けて下さり、思わず「ありがとうございます。」
    仕事が終わってちょっと遠出。斜め前の席の方が降りられると、正面にたっていた大学生が「どうぞ」と譲ってくれました。よっぽど座りたいオーラ出してたのかな?きっと自分のお母さんと同じくらいだな。このおばさん!って思ったんだろうな。「ありがとうございました。」と降りる時、声を掛けました。今日はありがとうをたくさん言えました。
    尊い命を失った皆さん、命を失わなかった皆さんのために、ステージでたくさんの人に伝えて下さい。
    たまにはゆっくりしてね。ニトリ商品はお任せ下さい。

  2. やっぱり 大変ですね。
    今日ボランティアの帰り 小さな山の上から私たちの住むところを見ながら 皆さんの町のことを 考えました。
    この見えている町が 一瞬にして無くなる。
    想像するだけで 言葉が出ませんでした。
    中学一年生の時 父を癌で亡くしたときは、早く死んで父の側に行きたいと こころの 何処かに ずーっと持ち続けていました。
    桑山さんも大切なお友だちを亡くされてお辛いですね。
    その方の分まで 生きてくださいね。
    お身体を大切にしてくださいね。

  3. 自然の大きさは強烈でした~学者に想定外と言わせたのですから!
    みんな意志を持って正しく行動した。
    そして亡くなられた方、助かった方、流された家、残った家~と明暗が分かれた。
    その分かれ目は自然が起こした偶然としか言いようがありません。だから悲しみを乗り越えないと天国から見ている方々もきっと嘆くことでしょう。
    「自然とまた同居しよう」「生き残った者の責任を果たす」被災地の方々が言われる言葉に説得力があります。

  4.     人の死 
    毎日、なにをネタに、なにを書こうか迷ったりしている。しかし、これも支援の一つかなと思い迷惑も顧みず続けているのですが、まず続けるということは大変なことで、その続けることを考えていると、仕事というものは続けられることなのではないかと思うのです。仕事を何にするかは人それぞれ違いますが、厭じゃあない、嫌いじゃあない、耐えられないわけではない、そうしないと続けられないじゃあないですか。それが、仕事なのかなあと思ってしまいます。
     作家の村上龍は「仕事は辛いものだ。みなさんはそう思っていませんか。それは間違いです。たとえばわたしの仕事、それは小説を書くことで、楽ではありませんが、辛いから止めようと思ったことはありません。(中略)。わたしは1日に12時間原稿を書いて、それを何カ月も、何年も続けても平気です。それは、小説を書くことが、わたしにぴったりの仕事だからです。」-村上龍著 13歳のハローワークーより
     作家ってすごいなああああ。口あんぐりで、卒倒しそうである。そんなこと僕にはとても無理だなあ思いながら思いながら今日のコメントを書いている。
     最近の世間の話題は有名人の死亡である。キャンディーズの田中好子さん。今日は俳優の児玉清さん。有名人の死亡は必ずマスコミが取り上げる。それぞれのファンにとっては悲しい知らせだろうが、そんなに話題にすることなのかなと思ってしまう。冷やかな気持ちでテレビや新聞を読む。話題にならない人たちの死はどうなのだろうと思ってしまからである。マスコミが伝えるのは、「東日本大震災の死者の数14、728人、行方不明1万人以上という「数」だけなのである。(5月2日現在)

  5. 黒々とした田んぼが痛々しいですね。
    五月の爽やかな風も今年は風情が違うのかなと思っています。
    家の床下の泥出しがまだまだ終わっていないと報道されていました。その泥も真っ黒でした。
    ボランティアの方々の支援が入りますようにと願っています。
    今までのような暮らしが出来るようになるまで、支援し続けることが大事だと改めて思いました。

  6. ついこの間、 そこにいて 一緒に笑ったり ご飯を食べさせたり オムツを替えてあげていた 「息子がいない。」ふっと、考えると 胸が 鋭い刃物で突き刺されるように痛みました。じっと痛みに堪えていると、暫く身動きできない程でした。2年過ぎ ハンマーで撃たれる位な痛みに軽減されていました。3年過ぎたら、フライパンで殴られたような鈍い痛みになっていました。今は、折々に思い出した時、胸に重いボールを受けたような鈍痛を感じますが はやく通り過ぎてくれるようになりました。少しずつ少しずつ、痛みは軽くなって行くのです。
    でも今 正に アイスピックで胸を突き刺されるような痛みに堪えている方達がいるのです。
    「少しでもはやく、心に安らぎが来ますように。」私は祈る事しかできません。でも毎月11日 支援のおかねを送らせて頂き、「応援する気持ちを形にしよう。」と決めています。同じ空の下、いつも思っている人間がいる事を覚えていてください。

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