もう1年以上、僕の外来に来てくれている清子さんは、入ってきたときから元気がありません。
「どうしました」
「ん~」
深いため息です。
「何かありましたか?」
「せんせ、農家はね、土いじれなくなったら終わりなのよ」
清子さんの家は専業農家です。今回津波の水が30cmでやってきました。家屋は床下浸水でたくさんのものが流れてきましたが、海水は裏に広がる広大な畑と田んぼを覆い尽くしたのです。
「せんせ、わかる?この時期はね、田んぼにいっぱい水が入ってね、そのすがすがしい香っていったら・・・。私は1年で一番田植えの時期が好きなのよ。”よし!今年もいい米つくるぞ!ってね、お父ちゃんと一緒にがんばって田植えをするのよ。そりゃあ大変だ~って思ってきたよ。毎年毎年で腰も曲がってくるもんだ。でもね、塩水浸かって、海のヘドロが乗って、もうダメなのよ、うちの田んぼ。
津波が去ったあとの田んぼ
百姓が土いじれないなんてね、もう頭がおかしくなるよ。この気持ちの落ち込みと情けなさってなんだろね。私たちは土で生きてきたんだ。それがこんなことになっちまってね。」
清子さんはがっくりと肩を落としています。
「でもね、うちの横の農家が畑につもった海の泥を5cmだけ掻き取ってみたんだよ。そんでそこににんじんとほうれん草を植えたんだ。なかなか芽が出ないんだよ。哀しかったな。でもね、1ヶ月待ったらそれでも芽が出たんだよ。ほんの少し、これくらいね・・・。」
清子さんは人差し指と親指で3cmくらいの隙間をつくりました。
「それでもうちだって負けちゃいられないからね。今お父ちゃんと泥の掻き取りやってるんだ。田んぼはいじれないけど畑はいじれるからね。ヘドロだけで山のように掻き取れたよ。そんでそこにキュウリとナス植えたんだ。もう毎日“芽よ出ろ芽よ出ろ”って祈ってるんだよ。海にね、こんな目に遭わされるとは思っていなかった。百姓は土があって生きていくんだ。これまでどれだけ土が大事だったか、そして芽を出す作物がどれほど愛おしかったか、よくわかった。わかったときには塩水に襲われたんだ。でも、負けないよって、父ちゃんと話してんだ。私らはここでしか生きていけないもの。目の前の土生き返えらせて、また米つくるんだ。それまであきらめないけどやっぱり落ち込むな・・・。
清子さんの畑まで車で2分です。
「日曜日、畑、見に行ってもいいですかな?」
「なんでせんせが?・・・。でもいいよ。泥かきしてっから・・・、見に来て」
白く塩が浮いた田んぼの表面
僕の外来にはお百姓さんがたくさん来てくれています。もう80の齢になる忠介さんが語りました。
「今回の津波は尋常ではないんじゃ。田んぼの塩害はもちろんじゃろう。しかし忘れてならんのが防風林がなくなったことじゃ。津波はことごとく防風林をなぎ倒していった。これから夏に強い風が吹く。それに乗って冷たい風がもろ吹き込んでくじゃろうて。だからたとえ田んぼの塩害が抜けたとて、風による冷害を防ぐことができん。だからもう何十年もこの地での農業は無理かもしれんのじゃ。」
そういえばクリニックにも強い風が吹き付けるようになったし、夜になると鼻をつくヘドロと磯のにおいが否応なしにここが被災地の真ん中にあることを自覚させてくれます。
道路に横たわっていた一艘一艘の船に、漁師一人一人の人生と思いがこもっているように、田んぼ一枚一枚にお百姓さんの人生と思いがこもっています。少しでも塩の混じった表面のヘドロを掻き取り、少なくとも畑で作物ができるように取り組んでいかなければなりません。
津波の被害を免れた田んぼや畑からとれる作物の愛おしいこと。
ふと食事とするときに、
「このにんじん、どうやって獲れたんだろう。塩害のない、肥やしの効いた黒土に埋まっていたんだろうなあ。」
と思えてきます。それを食べると言うことはとっても恵まれたこと。いつかこの名取の沿岸農家がもう一回作物を出荷できますように。その初野菜は、新米は絶対にその場で食べたい!
そう思った1日でした。
桑山紀彦
塩水に使ってしまうと、何年も、農作物が出来ないんです。私の実家の隣りの地域が10年近く前、堤防が決壊し海水につかり大変でした。でも最近では、その土地でも作物が出来ているのを帰省した時見ました。何年かかるか分からんけど、また、田植えの風景や稲刈りの時が迎えられると思います。
街の瓦礫と沿岸の被害に目を奪われていましたが、田畑の状態の深刻さも勉強になりました。人間はいかに気温・風・水など自然
と共存し、自然を上手に利用してきたか痛感しました。
飽食に慣れきって、ササニシキとコシヒカリはどっちが美味しいかは考えても、どういう工夫で美味しいコメが作られているかには無関心な都会生活をです。
子供のころに♪♪蓑着て笠着て鍬持ってお百姓さんご苦労ん♪♪の唱歌を思い出しました。
皆さん、これからはお米一粒々々をこぼさず大切にした昔に戻りましょう!!
塩害のことは、あちらこちらで、話題になっていますが、防風林のことは、知りませんでした。その土地で、農業に携わっていないと、わからないことですものね。そいうところにも、援助の手が、差し伸べられ、国内、国外から集まった義援金が、賢く使用されるようにと願います。
防風林を育んできた先祖代々のご苦労が、土にもしみ込んでいるでしょう。
復活するための努力が一日も早く報われることを切に祈ります。
「負けじ魂」を発揮してください。
3月末に支援に入った方から、みやぎ生協閖上店の被害状況を聞くことが出来ました。
この場を借りて少し紹介します。
1階は水没し、店内の瓦礫の山の中には自動車が4台もあったそうです。
あらゆるものが流れ着き、アルバムやぬいぐるみなどもあって持ち主のことを思ったそうです。
一つ一つ手作業で運び出したそうですが、すべての物がヘドロで汚れており、
全身ヘドロまみれになってしまったそうです。その臭いには閉口したと話されていました。
「当たり前だと思っていた日常の生活が、どれだけ大切なことかを改めて感じました。」
「支援活動を通して、人と人が助け合ったり、支えあったりすることの大切さを知りました。」
大きな衝撃を受けながらも真摯に向き合い大切なことを伝えてくださいました。
農地の塩害、ヘドロの堆積は大変な被害ですね。これもマンパワーが必要ですね。
防風林のことは全く思いもよりませんでした。点でなく面で見なくてはなりませんね。
復興するまで長い時間と労力と資金がかかりますが、一人ひとりができることを考え、
実行していくことが大事だと思います。私にできることを続けて行きたいと思います。
今日のNHKの放送見ました。私は中学生の時に一度、地球のステージを拝見させていただきました、宮城県気仙沼の小泉中学校の卒業生です。わが家と家族は無事でしたが、小泉の街は消え去り、気仙沼の階上地区にある母の実家も消え、母校の高校も壊滅的な被害を受けました。思い出の景色は変わり果て、元の形すら分からなくなった所が沢山あります。
今、私だけ仙台に住み、学校に通っています。気仙沼の実家は今だに電気・水道が来ておらず、満足に暮らしている自分が嫌でしかたないんです。地震後は感情の浮き沈みが激しくなりました。誰かに話を聞いてほしいけど、そんな相手がなかなかいなくて…。ブログに書き綴る事しかできません。とても辛いです。
桑山さんも、友人を亡くされたんですよね。とてもとても辛いと思います。でも被災した私たちの為に、頑張ってくださっていて本当に感謝しています。ありがとうございます。桑山さんも辛いときはどうぞ泣いてください。辛いのに泣けないなんてのは、どんな拷問よりも辛いです。どうか体に気をつけてお過ごしください。
それでも立ちあがってきた
近頃、芸術院会員吉村昭著「三陸海岸大津波」と「関東大震災」の二冊がよく売れているという。
僕も買って読んでみた。前著の中に次のような一文がある。明治29年の津波である。
-肉親を探してあてどもなく歩く者が多かった。精神異常を起こして意味もなく笑う老女や、なにを問いかけられても黙りつづける男もいた。
宮城県本吉郡小泉村では、倒れた木のかたわらでたたずむ一少女の姿が人の眼をひいた。
「どこの村の者か」
と、尋ねたが、少女は答えない。
再びたずねると、少女は首をかしげて、
「なんちゅうか、わすれやした」
と答えた。
「姓名は?」
と問うと、同じように、
「忘れやした」
と言うだけだった。
眼は焦点も定まらぬようにうつろで、この少女のように精神的な打撃を受けて記憶を薄失った者は各町村にあふれていた。また津波の恐怖で発狂した者も多く、生涯を狂者として過ごした者もいる。
一家全滅した家は、数知れなかった。-
以上 吉村昭著「三陸海岸大津波」より
東北はそれでも、立ちあがってきた。再び、立ちあがれる。
和歌山 なかお
防風林の存在の大きさは、身にしみて、痛いほどわかります。
石狩地方は、日本海から吹きつける冷たい風との闘いが、暮らしそのものだからです。風が強くて、地温が上がらず、マルチをしてもニンジンの芽がなかなか出なかった年は、泣きたくなりました。
本州では夏日、真夏日と報道されていましたが、北海道ではまだ雪が降ることもあります。決して珍しくありません。稚内の方では、桜は6月の花です。
こちらでは、防風林にポプラなどもありますが、名取では何の木だろう、と考えながら読みました。
防風林の木が、植林して一番根付きやすいのは、いつ?
国の動きを待っていては、手遅れにならないだろうか?
雪印種苗から苗木の寄付をしてもらえないだろうか・・・?
いろんな考えが頭の中をぐるぐるしています・・・。