帰国しました

 朝成田空港に帰国しました。

 そのまま車で名取に戻りましたが、4時間まではかからず随分成田も近くなったなあと思いました。「地球のステージ」につくと、そこには何人かの全国からのボランティア・メンバーの皆さんが。みんなでクリニックの周りをきれいにしてくださっていました。そして、赤い消防車もまた磨いてくださいました。かなり中の砂が乾いてきてはいるのですがやはり、海の砂は細かいところにまで入っていてなかなかすべてを掃き出すことは難しいのが現状です。
 さて、午後からは外来でした。
 29日のTBSと日本テレビの特番の影響なのか、新患の方が随分増えていらっしゃいます。当面は「被災者の肩を最優先」に新患を診させて頂きたいと思うのですが、今日の新患、靖子さんは63歳のお母さんです。
「私は、閖上7丁目。津波ですべてを失ったよ。
 私はずっと閖上5丁目に暮らしたんだよ。夫は海の仕事、私はかまぼこ作る会社に勤めてね。閖上は小さな街だけど生まれた街だし、海の幸がおいしくてね。ずっとここで生まれ、大きくなって働き、ずっと暮らしてきたんだ。
 長男が生まれて大きくなった時、長男夫婦と同居できればと思ってね。10年ほど前に7丁目に引っ越したんだ。83坪のねおっきな家を建てたんだよ。二世代住宅だよ。当時はやり始めてたオール電化にもしたんだ。でも長男に生まれた孫のことでね、同居はできなくなったんだ。しょうがないよ。人生はいろんなことがあるからねえ。
 でもお父さんと一緒に頑張って、ローンを払いながらこの大きな家を守ってきたんだ。孫も大きくなって落ち着いたら、また息子たちと暮らせるかもしれないしね。だから私はあきらめないで、ずっと仕事を続けてきたんだ。もう40年以上だよ。
 ローンはあと5年で終わるはずだったんだ。そしたらお父さんと一緒に北海道を長く旅したいね~っていってたんだ。温泉つかりながらね。おいしいもの食べてね。これまでここまで頑張ってきたんだもの、それくらいのご褒美があってもいいじゃないか、ねえ…。
 でもね、あれがすべてを奪っていったんだよ。
 一瞬だった。これまで積み上げてきたものをあれはすべて持っていっちゃったんだよ。
 勇気出していってみたら、残ってたのは玄関に上る2段の石組みだけだった。
 私たちは何のためにこれまで頑張ってきたんだい。何にも大きなものは求めてないんだ。ただ目の前にある小さな幸せのためにコツコツ頑張ってきたんだ。
 息子も大きくなった。お父さんも十分働いた。私もここまで踏ん張ってきた。さあ、あと5年でローンが終わって晴れて何でもできる!って、そう思ってきたんだよ。
 でもあれは、全部持ってっちまったよ。あとには家の土台と砂だけだ…。
 お父さんと時々話すんだよ。
 “なんであのとき死んじゃわなかったんだろうか”
 って。こんな思いまでして、こんなに何もかも無くして、もう生きてる気持ちが湧いてこなくなる時があるんだ。そんな時はお父さんと二人して話すの。
 ”あのまんま死ねたらどんなに楽だろうか”
 ってね。
 そんなこと言うと親戚に怒られるんだ。
 ”命助かっただけでもありがたいでしょ!“
 って。でもね、命残っても希望が無かったら生きてはいけんのよ。
 私は、これから何を希望に生きていくといいんだろうかねえ…」
 ジャワ島の希望の話から、一気に現実の話に戻りました。そう、これが今の名取の日々です。まだまだ多くの人々が失ったものの多さに押しつぶされそうです。そんな中に、一つ一つ生きるための小さな“灯り(あかり)“を見つけながら、それをコツコツ積み上げていく、それがこれからの「復興期」に大切なことなのだと思いました。
桑山紀彦

帰国しました」への8件のフィードバック

  1. おかえりなさい!
    昨日、桜の花を見つけたと思ったら、今日は霰(あられ)の降っている札幌です。
    寒い、寒い~。 ブルル・・・。
    でも、まぁ、これが毎年のことです。
    5月いっぱいは、ストーブを片付けられません。
    それでも、人は生きています。
    この寒さの厳しい島から離れずに、生きています・・・。
    今日は、東北各地の友人たちからのメールを読んで、返信したあとに、このブログを見ました。
    いわき、郡山、南相馬、気仙沼、東松島、南三陸、石巻、そして釜石。 明日は仙台の友人たちに電話しようと思います。 札幌にいて、話を聞くことくらいしかできないけれど、聞き続けてゆこうと思います。

  2. コツコツ積み上げてきたものを一瞬にすべてを失う。虚無感と瓦礫の山を見たら気持ちがくじけますね。そんな方々に迂闊な言葉はかけられません。
    自分だったらどうするか?どう考えるか?確信が持てません。
    お年寄りには気力の火が消えないように「心のケア」が大切だということはわかります。

  3. 先生お帰りなさい。
    お疲れ様です。
    生きていられるだけ、最愛の人を亡くしてないだけ・・・。って思うのですが、多くのものを奪われた方の苦しみも本当に大きいのですね。辛いです。
    光を見つけて上を向いて歩き出して欲しい。
    そう願うばかりです。

  4. 桑山先生お帰りなさい。
    休むこともなく、すぐに診察お疲れ様です。
    患者さんは診察受け安心された方多いと思います。
    現実はまだまだ厳しさが続きますね。
    体は食べて眠れば維持できますが、心のほうは複雑です。
    今は目の前にあること一つずつをこなしていくことを、考えています。
    目標とか希望なんて、考える気力も起きませんがトイレに立ちあがり受け付ける範囲で食事をすること。
    自分の出来る範囲で自分のことをしていく。生きることが仕事と思います。
    現実は厳しいけれど、たまに考えていたことと違うことがおきたり、考えが変わっている自分に気づくことがあります。
    津波が到達した場所なのに、水仙が咲いています。
    根付く強さを見ました。

  5. 無事に戻られて何よりです。
    TV報道を見て来院される方もいるんですね。
    まず最初の”灯り”は東北国際クリニックの桑山さんですね。
    津波にあった苦しい現実を受け入れていくのは大変なことだと思います。
    来院はその始めの一歩を踏み出されたということなのでしょう。
    何か小さな希望の種が見つけられるよう祈っています。

  6. 僕はいったい何ができるのだろう
     
     フィギャアスケート世界選手権で安藤美姫が優勝した。「こんな時期にスケートをしていいのだろうか」と彼女は思った。しかし、自分にできることは「スケートしかない」。そう考えて世界選手権に出た。思いは悲壮だった。
     試合後のインタビューに答え「自分のことより日本のことを考えて滑りました。震災で困っている人が少しでも笑顔になれるように」と話した。凄いなあああああ。偉いなあああああ。
     芸能人たちは被災地を訪れて活動もしている。コロッケはものまね。長渕剛はライブ。石原軍団は一週間に及ぶ寝袋持参の炊き出し。凄く偉いなああああああ。
     一般のサラリーマンだって、このゴールデンウィーク、ボランティアツアーに参加している。瓦礫の撤去だったり、ヘドロの清掃、避難所の配膳等、いろんなことをして活動している。ボランティアツアーにより、日帰りボランティアもあれば、泊り込みボランティアもある。ほとんどがボランティア初心者だそうである。僕にはとっても真似ができない。だって体力ないし、脚力ないし、腰はぎっくりごしだし、肩は筋肉痛だし、目は悪いし、頭は悪いの通り越して最近はボケてきてるし・・・・・・。
    とほほほほ、情けない・・・・・。
     桑山先生、お帰りなさい。帰ってくるなり、現実の厳しさ、辛い現実・・・・・・・。
      僕はいったい、なにができるのだろうか。
     和歌山 中尾

  7. ゴールデンウィークも終盤。
    ニュースになん十キロも続く高速道路の渋滞の模様が報じられています。
    福岡では200万人を越す博多どんたくも開催されています。
    北九州市もいろいろ催しもあるなか、
    私は夏の地球のステージの会場に予定している北九州市のムーブホールに
    憲法記念日の講演会に行きました。
    講師は元レバノン大使天木直人氏です。
    小泉総理時代の外交官天木氏は、
    日本のイラク派兵がたとえ平和維持であってもするべきでないと総理に進言して結果外務省を去ることになられたかたで(その考えの賛否はともかく)、2年前のガザ侵攻のとき桑山さんがガザに入られたことを、ご自身のブログに「真の日本人」とかかれていた方だったことを思いだし、サイン会の時に話しかけたかったのですが、気が弱く(?笑)帰ってきてしまいました。
    それはともかく、講演の中で未曾有の事態の今こそ、日本人はもっと「真実」を知ろうとするべきだとおっしゃっていました。
    いつも地球のステージで桑山さんが
    まずは知ることといわれることに通じてますね。知らないままでいることはいつか誰かが悲しむことになるのかも知れない、知ることはとても重要なことのようです。
    別のニュースで名取市はカーネーションの産地で、今年は津波にあって無理かと思ったのにちゃんと咲いてくれたと、生産者の方も花束を買う方も嬉しそうでした。わたしも嬉しくなりました。
    嬉しいことも悲しいことも、知ろうとすることならいまでもできそうです。

コメントを残す

あなたのメールアドレスは公開されません。必須項目には印がついています *