自分がスーパーバイズを行っているヨルダンの心理社会的ケア事業。
中でもシリア人難民キャンプでシリアから逃れてきた子どもたちに心理社会的ケアを提供する活動はもう5年になります。
その中心人物がファティーマとサラーム。やる気があり、何にでも積極的であるこの両名はこの活動を支える重要な人物です。しかし、5年にもなるとある意味の「自負」が出てきて、
「私は心理社会的ケアの専門家なのよ。」
という気持ちになりがち。うちのガザ・チームにも時々感じられる事なので、珍しい事ではありませんが気をつけないといけません。なぜならば優れたファシリテーターは、自分の弱点や今陥っているところを謙虚に受け止め、自らに対して常に、
「これでいいのかな?」
という視点を持たなければならないからです。
しかし、ファティーマは強烈かつ一方的に映画「オリーブの声」を批判してきました。
「イスラエルとの共存なんて言葉を出して、子どもたちがかわいそう。」
いや、一旦「共存」という言葉を出して、エリーニに強烈な批判を受けシナリオを修正したのだという事を話し、そこで桑山自身も学び、オリーブの樹(についてのみ)は「共存している」という事を伝えるような形にして、含みを持たせる事でみんなと内容を合意したといっても、
「受け入れられない。」
の一点張り。
さらに、
「オリーブの樹がしゃべるなんて、イスラム教では絶対にあり得ない。メッセージを伝えられるのは神だけ。だからそもそもシナリオがおかしい」
といいます。
イスラムの原理主義に則ればそうなのでしょう。しかし、私たちは子どもたちの心のケアのために活動しているのであって、宗教観を論じているのではありません。
「樹がしゃべる」という事は想像力によって起きている事であり、そこに「学び」や「気づき」がある事に心のケアの意味があると思うのです。
そして確かにこれは日本人の僕の感性で書いたシナリオではありますが、日本人的には「樹がしゃべる」という事は決して変な事ではないと思います。だとしたら、ファティーマは「日本人と協力してやっている」という意識が非常に薄いのではないか、と思うのです。
「自分たちが現場の活動をやっているのだから、日本人はただ見ていればいいのよ。」
では国際協力ではありません。お互い協力し合って初めて国際協力です。
でも往々にして国際協力については、「日本人がお金を取ってくる。私たちはそれでやりたい事をやる。」というパターンに陥りがちですが、日本人はその謙虚さのために、それをついつい容認してしまうのかも知れません。しかしここは国際協力なのだから、そんな日本人的な思考も受け止めた上で、議論する事が大切なのではないでしょうか。ファティーマのように拒否してくるのでは話しになりません。一方的に「イスラム教では樹はしゃべってはならない」というのでは、余りに偏狭ではないか、と思うのです。
実際この映画をうちのラマラのチームで観たときは、そんな批判は受けませんでした。
ひょっとしたらうちのスタッフも「あれ?」と思ったのかも知れないけれど、彼らは日本人である僕の視点を受け入れてくれたのだと思います。そんなお互いの寛容さでこの仕事が出来たら、お互いが学び合い、いいものが創れるのだと思うのです。
ファティーマやサラームが今後どんなふうに自分を「顧みる」のか、それがとても重要に思えたセミナーの一コマでした。
これから帰国します。3月1日の早朝、羽田に着きます。
桑山紀彦
子供は純真性ゆえに教えを鵜呑みにしているのでしょうが、、心の支柱に神が存在する心理は日本人の心情では理解超えることで難しい問題ですね。
何か解りやすいたとえ話があればいいですが・・・。