今日、ついに陸前高田に入りました。
NICCOとともに「心のケア」「心理社会的ケア」を行うためです。
名取からは早朝ですと2時間半で着きます。しかし着いたそこは見るも無惨に変わり果てた陸前高田でした。
以前陸前高田では第一中学校などでもステージがあり、ずっと通ってきました。自転車による日本一周の時には高田の松原やその南にある陸前高田ユースホステルに泊まり、その時の写真も大切に持っています。でもみんな失われてしまいました。
拠点のある広田半島のキャンプ施設「モビリオ」から見た陸前高田の風景はまさに1945年8月の広島そのものでした。
湾になっている陸前高田は広島と地形が似ています。そして河と道路とわずかな建造物だけを残してみんななくなってしまった風景が、まさに僕の見たヒロシマの写真とそっくりでした。
この哀しみをどうやって超えていくのか、見当もつきません。
街の営みが奪われ、街の中心地がすべて破壊されたという事実を受け入れるのは時間がかかります。思わず3月10日に戻りたいという、そんな気持ちに苛まれます。
それでも全国から人が入り、この街の復興を願う活動が脈々と続けられています。僕たちはそれを心の面から開始しました。まずは移動診療と心理社会的ワークショップへの取り組みですね。
頼れる臨床心理士、手林先生と、神戸から来た高橋先生(西神戸医療センター精神科)が中心となり、桑山のスーパーバイズとともに、この仕事が続いていきます。でも桑山はあくまで名取の診療がありますので、基本は名取で、出張ベースで陸前高田に関わっていきます。
桑山紀彦
桑山さん、皆さん、お疲れさまです。
今回の災害の報道等で想像を絶するという言葉を何度も聞きます。現地に立つ方々の素直な感想なのだろうと、できるだけ近い所で想像できればよいと、自分の頭に???を感じつつ過ごしています。そして、とどまることを知らない桑山さんの姿に、目を見張らずにはいられません。
陸前高田、私も、原爆投下後の広島の町だぁと思いました。
今日は随分暖かな一日で桜の花も昨日に比べて開いた花びらが増えました。両親と離れ、疎開してきている男の子が、お母さんと離れて暮らすのに慣れてないから…と涙ぐんでいる映像を見て 一日でも早く離れ離れの家族が一緒に暮らせます様にと祈りました。“疎開”この言葉は先生の時だけに使う言葉じゃないんだぁと思い、胸が苦しくなりました。
陸前高田の困難を目の当たりにしながら、ずめげずに何をするかを考えている桑山さんを想像しています。
陸前高田出身の「あっちゃん」は、未だに安否がわかりません。 学生時代、下宿で一緒だった、あっちゃん。 5才の娘のお母さんになって、気仙沼の役所で働いているはずだと、四国在住の友人から聞いて、それっきり、情報がありません。
気仙沼出身の「ヤッチ」は、京都から実家のある気仙沼の映像を見て、イラク戦争を思い出したそうです。空爆当時、ヤッチはバグダッドにいました。故郷が燃える夜の映像が、バグダッドみたいだった、と・・・。
なかなか消息のわからなかったお父さんの無事が確認できた19日、ヤッチ自身が「お父さん」になりました。
「早く、気仙沼のジジ、ババに会ってほしいです」。
ヤッチは、更地になってしまった故郷の何をどんなふうに、これから幼い息子に伝えてゆくのでしょう・・・。
仙台のキムさんは、78才。
「戦中、戦後を生き抜いたからね。大丈夫よ。心配しないで」と、電話の向こうで笑います。
いつもは「淋しい。話したい。会いたい。北海道に行って、羽を伸ばしたい」という会話になるのに、今は、なんだかすごく「がんばってる」感じなんです。
地震のちょっと前に「いっぺん、ご飯を食べられない状態にならなければ、今の日本は変わらないわねぇ」と言ってたキムさん。 だから、あんなにがんばってるんでしょうか。
心配です。
今日のブログを読んで、そんな友人たちのことを思っています。 桑山さん、私も、札幌で出来ることをやり続けます。
明日も、明後日も、その先も。
北から順におもなともなところ、宮古市(死亡385人、行方不明1300人、住宅約4700倒壊)、大槌町(町長をはじめ560人死亡、市街地ほぼ壊滅)、釜石市(684人死亡、行方不明650人以上)、大船渡市(279人死亡、約250人行方不明、津波などで3650棟以上全壊)、陸前高田市(1137人死亡、1250人行方不明、市街壊滅)、気仙沼市(667人死亡、1500人行方不明、広範囲で津波被害及び延焼)、南三陸町(379人死亡、約10000人行方不明、町は壊滅)、女川町(354人死亡、150人行方不明、平地は壊滅)、石巻市(2482人死亡、約2750人行方不明)、名取市(821人死亡、約1000人行方不明、市街壊滅)、南相馬市(358人死亡、約1100人行方不明、海岸付近ほぼ壊滅)。
なんという死者の数、行方不明者の数。それにもまして、痕跡も残らない壊滅状態の街。
そこに多くの人の営みや、生活や笑い声があったはずだ。そんな多くの人々の思い出や喜びを一瞬にして消し去ってしまった3月11日という日。忘れようとしても忘れることはない。
しかし、今そこに立ち上がろうとしている人々がいる。そのことに目を向けよう。そんな人々を支えたい。そんな人たちと一緒になって未来を築きたい。
僕にいまできること、それを必死になって考えている。明日を見つめて。
和歌山
中尾より
桑山先生、お疲れ様です。連日、様々な活動や診療など、めまぐるしく戦っておられますね。
陸前高田市は壊滅的な被害で、見るも無残な姿になり、実際に見たらどんなに辛い気持ちになるか…想像します。広島に原爆投下された時と同じような姿となった…爆撃を受けたと同じ状況ですね。ただ、 人為的ではなく、自然災害だったので、怒りや嘆きの矛先はどうしようもありません。自然の猛威は物凄いなと思います。けれど、綺麗な山々、桜や新緑…自然が私達にくれる日々の恩恵は計り知れなくて…複雑な心境になります。地震多発国日本だからこそ、復旧、復興はたちまちのうちに成されていきますが、自然界からの何かしらの警告を真摯に受け止め、私達人間は、謙虚に安全に暮らしていかなければなりませんね…。
日本人の復興力を信じ、一歩ずつ、進化しながら進んでいきたいと思います。
北九州にもすでに被災された方が避難されており、職場関係でも自衛隊のお父さんを残して4人家族でこちらへ来て新生活を始めておられる方がいます。
日曜日「被災者に接するときの心得」の講習会に参加してこようと思っています。
本当に何もない光景に被害の大きさを思います。
移動診療と心理社会的ワークショップへの取り組みは大切な支援ですね。
皆さんが復興へ向けて前向きになれるよう、支援をお願いします。
私は情けないことに風邪を引いてしまいました。先ずは健康第一ですね。
明ちゃんや優子ちゃんもどうぞお大切に。
広島も復興しましたよ!
大和高田市に住んでいて、やはり陸前高田市のことは気になっています。同じ高田の名前を持つ、安芸高田市・豊後高田市(最も有名な新潟県の高田市は上越市になってしまいました)とともに陸前高田市への支援を大和高田市役所に働きかけました。連携はできていないようですが、大和高田市役所のホームページには以下のような報告があります。また、大和高田市PTA協議会も陸前高田市に支援品を送ったようです。
・・・・・大和高田市ホームページより・・・・・・・・
大和高田商工会議所を通じて、会員企業や市内商店街(商業組合)等へ救援物資の提供をお願いしました。その結果、3月28日から4月1日までに、肌着や靴下、靴などの物資が集まりました。4月6日、奈良県トラック協会高田支部のご協力を得て、段ボール箱740個分の物資を、7日陸前高田市学校給食センターへお届けする予定です。
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今後も陸前高田への支援を続けるよう大和高田市に働きかけていこうと、ブログを見て思いました。
勤務校は今日が始業式でした。東北にボランティアに行って欠席の生徒がいました。「始業式に無断で欠席することは教員としてはほめることはできないが、人として彼らを尊敬する」と学年集会で発言しました。学年主任の発言としては不適切だと思った人もいたかもしれませんが、彼らを誇りに思います。