最終日、ニーメルに逢うことができました。
ニーメルはステージの4番に出てくるパレスチナの青年です。当時17歳だったニーメルは、僕たちのワークショップの生徒でした。破壊された家の廃材を使った打楽器ワークショップに参加してくれたニーメルは、「日本にのうのうと暮らしているおまえに、俺たちの何が分かる」という感情をぶつけてきた青年でした。
その言葉にショックを受けた僕は、しばらく立ち上がれませんでした。いや、今もその言葉が心に突き刺さって、国際協力をやりながらもいつもこの言葉が気になっているといっても言い過ぎではないでしょう。
しかしガザの空爆が起きたのです。
2009年1月15日、ガザに入ろうとエジプト国境のラファ検問所にいた僕たちは、許可をもらってしまいました。目の前でがんがん爆弾が落とされるガザに入れるとなっても、正直足がすくみました。その時ニーメルの言葉がよみがえりました。
「おまえに何が分かる」
そう、自分は平和な日本にのうのうと暮らしている。だから、君たちの苦悩や怒りは正直分からないだろう。でも分からなくても「分かりたい」って気持ちは持てるはずだと思い、ガザに入っていきました。
そして本物の空爆を経験した時、
「ああニーメル、君はこんなひどいことを小さい時からずっと経験してきたんだ」
と心の底から思いました。だから、これからも僕たこのガザに通い続けようと思ったのです。それはすなわち
「今は一割しか分からないかも知れない。でも来年には二割のことが分かるようになりたい。そのために、あきらめずにここへ来続けるんだ」
という想いにつながっていきました。
17歳の心ない発言は、逆に僕の背中を押してくれたのでした。
そんなニーメルは行方が分からなくなっていました。何せ家はブラジル地区の国境の際です。爆撃で跡形もなくなっていてもおかしくありません。しかし我が弟、アーベッドがちゃんと探し出してくれたのです。
ニーメル、22歳
22歳になっていたニーメルは大学に進み、今イスラム宗教学を学んでいます。伸ばしたひげは真摯に宗教学を学んでいる証です。しかし彼の家はやはり国境線の目の前で壁には無数の銃痕が残ります。優しい表情に変わったニーメルは静かに話し始めました。
「あの頃の活動はとても楽しかったよ。でも仲間たちはみんな今苦労している。結局大学に進めたのは奨学金をもらえた僕一人だ。みんな仕事を探してさまよっているんだ。」
やはり成績優秀のニーメルらしいところです。なぜ宗教学を学んでいるのか、という問いかけをすると、
「あの頃は弁護士になりたかったよ。でも正直そこまでの成績ではなくてね。残念、あきらめたんだ。でも物事の真理を極めるには弁護士でなくてもいろんな方法があると思ったんだ。だからずっと身近だったイスラム宗教学を学ぼうと思って進んだよ」
生涯をイスラム教に捧げる覚悟が見て取れました。
思い切ってあの日のことを話してみました。「おまえに何が分かる」と言われた日のことを。
「・・・・。あのときの僕は何も分からない若造だった。本当に右も左も分からない生意気な若造・・・。本当に申し訳なく思っているよ」
そしてそのニーメルの言葉に逆に押されて空爆下のガザの活動をしたことも、写真とともに伝えました。
「すばらしい活動を誇りに思うよ。あのときは本当にひどくて、僕もここを避難して親戚の家に逃げていたけど、そこで働いてくれたとはな。本当に誇りに思うよ」
別れ際、
「これからも時々来てもいい?」
「ああ、いつでも来てくれ。ずっと友人なのだから」
そして握手して別れました。
でも、僕は思う。ニーメルは心の底から僕を受け入れたわけではないと。彼の瞳の中には「それでもおまえは日本に帰っていくんだろう」
という気持ちがこもっているように見えました。ただ再会しただけですべてが氷解するわけはないのです。道はこれからです。
本当に彼らに仲間と思ってもらえる日まで飽きもせずガザに通い続け、そして日本ではステージでコツコツと本当のガザのことを伝えていく。そうすることでいつの日か、「おまえも仲間になったなあ」
と言ってもらえる日が来ることを信じて。
次は7月に、明ちゃんとともに
桑山紀彦
ニーメルに会えてよかったです。
思いを伝えることができましたね。
とても気になっていた青年でしたから。
私ものうのうと暮らしている日本人ですが、
地球のステージのおかげで、世界のいろいろな人たちを気にかけることができるようになりました。
いつか、ガザの人たちが自由に日本に来れることを祈りながら、日々暮らしたいと思っています。
どうぞお気をつけてお帰りください。
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