天草郡苓北(れいほく)町に、後藤エミ子おばあちゃんを訪ねました。
今年4月16日に被災されて家は全壊。南阿蘇の避難所に開設した「こころの相談室」にいらっしゃったのが4月20日の昼の出来事でした。膝の痛みを訴えると同時に、取るものも取らず身一つで逃げてきた自宅のことが気がかりで、その「心の痛み」が膝の痛みに多少なりとも関係していると思った僕は、そのまま明ちゃんたちにお願いしてご自宅に行っていただきました。
帰ってきたエミ子おばあちゃんはもう別人のようにすっきりされていて、
「家に戻れて良かった。心残りが軽くなった!」
と大喜びされていました。やはり「避ける」のではなく「向き合う」ことで人は前に進むのだとまた、教えてもらいました。
そんなエミ子おばあちゃんは村役場のはからいで空きのあったこの苓北町の老人保健施設に「移住」されたのです。一人暮らしで自宅が全壊となると大変だろうという判断だったと思います。
しかし苓北町は南阿蘇とは全く正反対の海の街です。クルマでは4時間近くかかる西の端の街です。生まれ育った南阿蘇を突然離れ、知人親戚もいない天草でどんな思いをしていらっしゃるかと気がかりで、今回明ちゃんと出かけました。
出てきたエミ子おばあちゃん。またまた別人のように元気になっていました。
「膝の痛みもすっかり消えてね~。本当に楽になったよ。そしてこんな天国のようないいところに住まわせてもらって、文句言ったらバチが当たるよね。」
御年89歳のエミ子おばあちゃんにしてみれば、その歳で環境が大きく変わることには少なからずストレスが伴うものだと思いますが、それでも前向きでした。
「そりゃあ慣れ親しんだ南阿蘇を離れることはさみしかったよ。でも、近くに仮設住居ができるとは聞いたけれど、この歳で一人暮らし。ご飯をつくるのにも買い物も必要だ。故郷南阿蘇での仮設住居暮らしと、遠く離れた苓北町での今の暮らし。考えたけれどね、故郷を離れてここを終(つい)の棲家にすると決心したんよ。」
89歳の決心でした。
「でもふしぎなもんじゃね、あの地震がなかったらこうしてあなたたちと逢うこともなかったし、この町に来ることもなかった。これもまた運命だけんね。」
目の前には青い天草の海がきらきらと輝いていました。
家屋全壊による義援金の受け取りに不安があるとのことで、さっそくその場で南阿蘇の担当へ電話。10月7日までの申請で間に合うとのことで、書類を確認。9月末に北九州のお兄さんが来てくれそうなので、その時南阿蘇に戻って申請をすることになりました。
故郷、南阿蘇への想いはあるけれど、それでも今自分に与えられた運命を受け入れ、前に進もうとするエミ子おばあちゃんに励まされて苓北町をあとにしました。
これで天草に遊びに行く場所ができました。冬には長野で働く桑島愛希子(桑ちゃん)も行くとのこと。こうして、熊本地震が縁でつながった人の輪が強くなっていきます。
さて、今日は19時から南阿蘇中学校で「地球のステージ」。支援の最終的な活動に取り組んできます。
桑山紀彦