私たち人間には死を恐れるという特性があります。
死は肉体的な終わりを示しており、それは生きている人間には受け入れがたいことのように思う特性があります。しかし宗教は、そんな死への不安や恐怖を和らげるために多くの解釈を提供してきました。死後の世界を創造することで現世の「死」への恐怖や不安を少しでも和らげようとするものです。それは世界にたくさん存在する宗教の一つの大きな役割だと思います。
津波後、私は確実に死後の世界を信じるようになりました。それは、津波で亡くなった多くの人たちが出してくれる様々な「サイン」を感じるようになったことと同時に、たくさんの身内を失った人と会話するようになって得た「実感」でもありました。
27歳の娘さんを失った北釜の母さんが言いました。
「徳を積んだ人から先にあの世に行く。だからうちの娘はずいぶん早くに徳を積んで向こうの世界に行き、私が来るのを待っている。」
その通りだと思いました。そしてそう信じることが北釜の母さんのためでもあり、先に逝った娘さんもきっと安心してくれることだろうと思い、多くの場面でこの解釈を語ってきました。
閖中遺族会の大川ゆかりさんが、中学校でその語りを終える度に、
「今日も息子の駿君が見守ってくれていたなあ。」
と思うようになったのも、津波を受け多くの人の生と死に触れてきたこの5年間で得たものです。
イスラム教も、実はこの解釈を深く取り入れています。
確実に「向こうの世界」が存在し、「この世で徳を積んだものが、向こうの世界で幸せになれる」という解釈をその中心に置いています。
昨年、映画「ふしぎな石~ガザの空」を制作したとき、自分で書いたシナリオの中の「死の解釈」が最初は不安でした。もしかしてイスラム教の死の解釈にそぐわなかったらみんな不快に思うだろう、と。
しかしファラッハのお母さんが天から見守り、そのメッセージを言葉として伝えてくると言う解釈は見事に彼らに受け入れられ、一切の反論もなく本当に自然に受けいられた時、やはりイスラム教も向こうの世界を信じ、徳のある人から先に逝くと信じられていることがよくわかりました。私たちも、そしてイスラム教徒もこうして現世における死の恐怖や不安から解放されようと解釈を遂げてきました。
そんな切なくも哀しい「死の解釈」を、テロリストたちは自分たちのいいように利用しています。人は普通死を恐れ、それを回避しようとしますが、彼らはイスラム教の死の解釈を曲げて、
「自爆することで徳が積まれる」
と若者の背中を押し続けています。でも、これは全くイスラム教の解釈には当てはまっていません。単に「死を恐れることはない。死んでこそ花実が咲くのだから」と洗脳しているだけの話しで、イスラム教の教義とは実はなんの接点もないことです。
死ぬ覚悟で自爆テロ、銃の乱射、平気で人を殺める精神。
どれもイスラム教における死の解釈をいいように利用してゆがめているもので、本来のイスラム教の教義とは全く関係のないものです。ましてや「コーランの暗唱ができなかったから殺す」などという理由での犯行はまさに犯罪であって宗教的な裏付けなど全くないものです。
多くのパレスチナの友人が心を痛め、多くのバングラディシュの友人が日本人に謝っています。でも今回の犯行は、人間が死の恐怖を少しでも和らげるために生まれた宗教観を極解したことによって派生した暴走ですから、これまで通り信じるものに従って、愛と優しさを再確認し、生きていくほかありません。
今こそ私たちはそれぞれが持つ宗教観を認め合いながら、「犯罪」と「宗教」は別であることを再度確認しつつ、事件の再発予防のために意識化していく必要があると思います。少しでもこの世界に貢献できるように、前よりも良くなっている自分を確認しながら生きていきませんか。
桑山紀彦
祈りの中で…。足もとから小さな平和を積み重ねていくしかない…。悲しいです…。
繰り返される理不尽に暗澹とするだけで「どうして!」の思いで言葉がありません。
洗脳されて狂気に走った者の哀れさと、それに偶然に遭遇した人たちの無念さを思うとやりきれません。