常総市の現場に出向きました。
石下大橋の南、鬼怒川の堤防が見え隠れするその先に、突然常総市大房(だいぼう)の「現場」が現れました。
道路を覆う砂、傾いた家、めちゃくちゃに壊れたクルマ、そして重機のカタカタする音。全てが「あの日~津波の日」につながっていきました。
胸がワサワサして、手の先がじんじんしびれ、突然涙が出てきます。3月11日の翌日、3月12日の晴れ渡った空、全く音のしない静寂の世界。そして漂う泥と磯の臭い。
こころの中では既に「整理ついた」と思っていても、やはり激甚災害の現場に着くとあの3月11日からずっと続いた3月末までの3週間の感覚が蘇ります。
ただそこには遺体捜索の現場はなく、ただ無言で土砂が大地を覆っているのみでした。3月12日に出逢った多くのご遺体の現場とは違っていたのです。
そして救いは、この現場に多くの災害救援の人々が駆けつけ、宮城や岐阜ナンバーのクルマが駐車していたこと。こうしていても立ってもいられない心優しき人々がここにも駆けつけていました
いつ何時何が襲ってくるかわからない。日ごろからちゃんとした防災意識を持つことの大切さを改めて知る思いでした。
そしてずっと「地球のステージ」を呼んでくださっていた石下ライオンズクラブの生井(なまい)さんを訪ねました。
「いや~、本当に水は怖かった。あれよあれよという間に水が上がってくる。生きた心地がしなかったよ。でもね、今回の決壊にもちゃんと理由があるんだ。まず常総市の北で最初に水が溢れた若宮戸はね、そこだけ堤防がない地域だったんだ。実に昭和39年、東京オリンピックの時にそこにあった自然堤防の土を売ってしまって、かねてから若宮戸は危ないって言われてきたけれど、この50年間で堤防がつくられることはなかったんだ。
そしてその下で大決壊を起こした大房はね、今回の圏央道の建設で土が必要で、またその土を売っていたんだよ。結局そうやって建設のたびに土を売って危険と隣り合わせになって来たんだ。」
こうしていつの世も、こうして人災の要素をはらみながら大切なものを失っていきます。
今日は午前中につくばの高山中学校、夜に栃木県真岡市のステージがあったおかげでこうして常総の現場に来ることが出来ました。ただ「訪れる」ということだけでしたが、自分の心の中に住む「魔物」「正体」に気づかされる思いでした。こころのワサワサは絶対に前にはないものでしたから。
でも、その魔物や正体にちゃんと向き合っていかなければならないと強く感じました。
桑山紀彦
私自身悲しく辛いときに、自然と時間の流れに癒されてきた気持ちから、つい、考えの足りない不用意なコメントが多くなっていたように思います…すみません。
常総市の写真ありがとうございます。このような写真を見なければやはり分かりません。
人間は自然との共存をいかにして行かなければならないかを怠り、自然を甘く見過ぎているのではないでしょうか?
私は人が平和に暮らしていけることの中に、自然との共存も含めたいと思っています。
私の友人はシルバーウィークにボランティアで入っていました。
まだまだボランティアが必要と言っていましたし、また、行くとのことで連絡も取れませんから、きっとこの3連休で入っているのだと思います。
それなのに体力的に無理な私はボランティアとして入ることもままなりません。不甲斐ないですね・・・・。
生井さんの元気そうな姿を見て、ほっと安心しました。
何度もステージを開催してくださった地域交流センターは、今回の災害で避難所になり、何度もニュース報道されました。
ライオンズの皆さんは、無事だったのでしょうか。
お土産に頂いた、だんご春子屋さんは、営業されてるのでしょうか。
一日もはやく、普段の生活に戻れますように・・・。
傾いた電柱の写真~〃構図をつい先日新聞で見て3・11を思い浮かべていました。
昔、小貝川の決壊があり災害のサイクルからするとごく短期間にまた決壊~事故が起きてから
ガードレールを設置するような公共事業の予防対策は先手管理の遅さにむかつきます。
被災された方たちの明るさが救いです。