今回はラマダン中の滞在でしたが、今は大体午後7時50分くらいに日が沈み、モスクから大きなアザーン(お祈りの声)が聞こえてきます。すると食べ物飲み物をとっても良い時間となり、人々はようやく苦しい我慢の時間から解放されます。
断食というのは、日中陽が昇っている時間に飲食をしないという決まりですから、この夕方のアザーンをみんな心待ちにしています。
そんな中、2日目にマジディ家に招待されました。ここにはいつも娘と思っているルーリーがいます。この8月28日で15歳になるルーリーですが英語が得意でもう英語で普通に会話してきます。成績はこの6月初旬の学期末試験で99.1%。信じられない才女であるルーリーはやはり「医師になりたい」という夢を持って前に進んでいます。
でも、その日は違いました。お父さんのマジディもお母さんのアマルも、伯母さんのアムナも長女のルスルも、次女のラワンも、三女のルーリーも、長男のラーエッドも、次男のモハマッドも、みんなうつむいているのです。
そう、僕と明ちゃんが来たことで、いつも一緒に来るはずのダルウィーッシュがいないことにまた気づかされてしまったのです。いつものマジディ家の居間でうつむいたみんなと沈黙の時間が流れていきました。
逝去して2ヶ月。哀しみは全く減ることなく、胸の真ん中に穴が空いたような気持ちのまま、ただその沈黙に誰も抵抗できず、ただただ天に昇っていったダルウィーッシュのことを思い続けていました。
すると突然涙が出てきました。
あの日、エルサレムの病院現場にいた那美子さんが泣いていてもこちらは泣けず、仙台モスクでお祈りしてもらっても、全く泣けず、ダルウィーッシュの遺品を手にしても全く泣けずにいた自分が、ようやくこのとき声を上げて泣くことが出来ました。
思い出したのは2009年1月18日です。空爆が終わって一応の停戦を見た日の夕方、このマジディ家でみんなで無事を祝いながら食べたあのご飯の美味しかったこと。そして次男のモハマッドが僕に内緒で辛いものを食べさせ、その辛さにしびれていたらみんなが大笑いしてくれたあの時間のこと。
前の日までは空爆でおびえ尽くしていたのに、こうしてこの家族と笑い合えることが出来たことで「停戦」を実感したのです。その時の光景がありありと蘇ってきました。
声を出して泣く僕に、ルーリーが寄り添い肩を抱いてくれました。たった14歳の、娘のように思っている少女に、
「運命が来たんだから。」
と声をかけてもらいました。すぐには納得は出来なかったけれど、ルーリーはルーリーなりにそうやって受け入れようとしている気持ちが伝わってきて、こっちもしっかりしようと思いました。
ふと気づくとみんなが泣いていました。パレスチナ人は静かに抑えて泣きます。日本人にとてもよく似た心性を持っている人たちです。また仲間として、家族として一つになった感じがしました。
そしてその場にいたダルウィーッシュの娘のヘバが言いました。
「私は死後の世界を信じている。だから父は向こうの世界にいる。必ず逢えると信じているので、私は大丈夫。」
国が違っても、宗教が違っても、環境が違っても、僕が津波のあとみんなと分かち合ってきたその感覚と同じことが、ヘバによって語られました。
大切な人はこの世の修行を終え、向こうの世界で呼ばれて、実に尊い存在。ヘバもみんなもそう信じています。だから自分たちもこの世の修行を頑張ろう、と言う。
改めてパレスチナ人との強いつながりを感じることの出来たラマダン中の夕食での出来事でした。
そんなマジディの一家がこれまで撮りためてきた家族写真を見せてくれました。空爆があっても何とか守り抜いてきた貴重な写真です。
18歳のマジディ父さんの余りにダンディな姿にびっくり。
海辺の三人は上から長男ラーエッド、長女ルスル、そして次女のラワンです。
小学校の入学記念の写真はルーリーです。向かって左から3番目がルーリー、6歳です。
そしてこの家族とずっと仲良く付き合ってきたダルウィーッシュ、34歳の時の写真です。50歳で逝きましたが、若いダルウィーッシュのそのおどけた姿、「変わらないなあ」と思いました。
後ろにいるのは、マジディの妻、アマル母さんです。
パレスチナにもこうして家族がいて、成長していきます。みんな明日の平和を願っている心ある人々です。
桑山紀彦
習慣、環境、現状は違っても人の根本に宿るものは変わらないですね。
相互の信頼関係が通じれば争いも起こらないのでしょうが、争いは絶えません。
だけにこの活動の大切さが光ります。