2011年3月11日、午後2時46分。
僕はその日埼玉県長瀞町の長瀞中学校でステージの2番、パレスチナ篇を語っていました。
すごい揺れが来て、子どもたちは一気に出口に殺到しました。
「落ち着いて、前の方の出口も開いているから、落ち着いて外へ出よう。」
壇上からそう話しかけました。そしてその日はもうステージの継続は無理と判断して、須藤さんと一緒に機材を片付け、帰る準備をしていました。名取の事務局に電話してもなかなか通じません。嫌な予感がしていました。
担当の坂上さんに、
「大停電みたいなので、気をつけて帰って下さいね。」
といわれたのが午後4時。名取は津波に襲われていました。
あの機材を黙々と片付けていた時間の間に、丹野さんたちは津波に襲われ、大川小学校の子どもたちもみんな津波にのみ込まれていたのです。
そんな阿鼻叫喚の世界に巻き込まれていた、大切な仲間たち。
名取に住む者として、あの日あのときそこにいなかったことをいつもいつも悔いていました。申し訳ないとも思ってきました。でも9時間かけて一般道を走り続け、ついに名取の事務局戻ったとき、既に水浸しでした。
それから怒濤の日々が始まっていったのですが、僕にとってこの長瀞中学校で揺れたこと。片付けをしていたこと。9時間かけてすべて一般道を走り続けた光景を忘れません。それは僕の役割を果たしていた時であり、大切な人をたくさん失っていた時でもあるからです。
そんな「現場」であった長瀞中学校にまた戻ってきました。
2012年にステージ3番を公演し、今回はステージ4番でした。
一言も発せず、体育館で待っていてくれる長瀞中学校の素直で我慢強い中学生たち。最初から感動していました。
僕はその日埼玉県長瀞町の長瀞中学校でステージの2番、パレスチナ篇を語っていました。
すごい揺れが来て、子どもたちは一気に出口に殺到しました。
「落ち着いて、前の方の出口も開いているから、落ち着いて外へ出よう。」
壇上からそう話しかけました。そしてその日はもうステージの継続は無理と判断して、須藤さんと一緒に機材を片付け、帰る準備をしていました。名取の事務局に電話してもなかなか通じません。嫌な予感がしていました。
担当の坂上さんに、
「大停電みたいなので、気をつけて帰って下さいね。」
といわれたのが午後4時。名取は津波に襲われていました。
あの機材を黙々と片付けていた時間の間に、丹野さんたちは津波に襲われ、大川小学校の子どもたちもみんな津波にのみ込まれていたのです。
そんな阿鼻叫喚の世界に巻き込まれていた、大切な仲間たち。
名取に住む者として、あの日あのときそこにいなかったことをいつもいつも悔いていました。申し訳ないとも思ってきました。でも9時間かけて一般道を走り続け、ついに名取の事務局戻ったとき、既に水浸しでした。
それから怒濤の日々が始まっていったのですが、僕にとってこの長瀞中学校で揺れたこと。片付けをしていたこと。9時間かけてすべて一般道を走り続けた光景を忘れません。それは僕の役割を果たしていた時であり、大切な人をたくさん失っていた時でもあるからです。
そんな「現場」であった長瀞中学校にまた戻ってきました。
2012年にステージ3番を公演し、今回はステージ4番でした。
一言も発せず、体育館で待っていてくれる長瀞中学校の素直で我慢強い中学生たち。最初から感動していました。
そしてステージから見る体育館の鉄骨や屋根の風景は忘れない。「あの日」が蘇ってきます。なぜか今日のステージは泣けて泣けてしょうがありませんでした。
これが僕にとっての心のケアになっていくんでしょうな。
「その場所に戻り、気持ちを整理していく。」
今日がその日でした。
そして仲間たちと、
「あの日はどうだった、こうだった。」
と話すこともまた、心のためにはとてもいい時間でした。長瀞中学校のステージはそんな特別な意味があります。
雪が舞う中、熊谷の駅に帰っていきました。心が、すっきりしていました。
皆さんにとっても時々、「あの日の光景」に思いをはせて、自分なりの3月11日を想い出してほしいと思います。
もうすぐ3年の「あの日」です。
桑山紀彦
これが僕にとっての心のケアになっていくんでしょうな。
「その場所に戻り、気持ちを整理していく。」
今日がその日でした。
そして仲間たちと、
「あの日はどうだった、こうだった。」
と話すこともまた、心のためにはとてもいい時間でした。長瀞中学校のステージはそんな特別な意味があります。
雪が舞う中、熊谷の駅に帰っていきました。心が、すっきりしていました。
皆さんにとっても時々、「あの日の光景」に思いをはせて、自分なりの3月11日を想い出してほしいと思います。
もうすぐ3年の「あの日」です。
桑山紀彦
もうすぐ3年、早くて長い日々でした。
あの瞬間、三陸自動車道の真下で信号待ちしていた私は、巨大な怪物が頭の上の道路と、地の底を破壊しているように感じました。
必死にハンドルにしがみつき、やっと安全な場所に移動して揺れがおさまるのを待ちました。
全てを一人で耐える決意をした日から、何とか生活出来ている今。たくさんの人達の暖かいお気持ちに支えられました。
同じ辛さを共有できることは、力強いことです。
ギリギリのガソリンで母の薬をいただきに行ったとき、先生のお顔を見て嬉しかったです。
生きていることを大切にしたいといつも思っています。
小生にとっては、あの日あの場所に居合わせたことが、ステージ公演を「見る応援」を続けようと決めたきっかけになった日です。
あれ以来Dr・Kが背負うものが増えましたが、これからも事務局のチームワークと健康と体力で使命を果たされることを願っています。