今日は東京駅、八重洲口にある八重洲富士屋ホテルで「国際交流基金」主催のステージでした。
世界各地から集まった研修生の皆さんを対象としたステージでしたが、震災篇前編&後編のみのステージを公演しました。ただ後編はJICAのためにつくった「国際協力篇」に変えての公演でした。
同時通訳をつけてのステージでしたが、震災の話し、そして復興への願いは文化や宗教、言葉を越えて開場にいる多くの国の人々の心が一つになれた、すばらしい時間だったと思います。
いろんな想いが交錯し、そして人類としてこの津波のことを考えていこうとする連帯感が持てたと思います。
そんな中、僕の左隣にいるカンボジアから来た男性、見た瞬間からどこか懐かしい感覚がありました。
ステージが終わった時、彼は話しかけてきてくれました。
「すばらしいステージでした。」
「ありがとう。どこから来たのですか?」
「カンボジアです。」
「おお、あそこでは3年半事務所を置いて活動したからなあ。」
「そうですか。それは嬉しい。実は僕の父も精神科医なんです。」
「え?精神科医ってとても少ないからな、ひょっとして保険証の精神保健部長だった、カ・スンブナートさんの息子さん?」
「いえ、父の名前はケ・チュムと言います。」
「え?今、今なんて言った?」
「ケ・チュムです。」
「なに!、ケ・チュム先生の息子さん?」
「はい、父を知っているんですか?」
「もちろん、一緒に仕事をしたんだよ。」
「え?じゃあ、父が言っていた日本人の精神科医に世話になったというのは、桑山さんのことですか?」
「もちろん!おそらくドクターKという名前で覚えてもらっているから、“クワヤマ”という名前はわからないんだろうね。」
「びっくりしました!」
「こっちもびっくりしたよ。あのケ・チュム先生にこんな立派な息子さんがいるとは!」
「ありがとうございます。」
「お父さんに最後にあったのは2007年、映画のロケの時だったなあ。」
「私は留学していていませんでした。」
「うん、お母さんとお二人だったよ。」
「父は引退したんです。」
「そうか、でもカンボジアの精神医療の黎明の時代を生き抜いた人だよね。」
「ありがとうございます。」
「かえったらお父さんによろしくね。」
「まだ7ヶ月あります。」
「そうだ、今月末にカンボジアに入るんだよ。」
「そうですか。」
「お父さんを訪ねてみるね。」
「はい、家の場所は変わっていません。」
「うん、ガイドなしでいけるよ。」
「はい。」
びっくりした出逢いでした。
1996年、国立シアヌーク病院に精神科を新設する仕事をしていましたが、その中心人物がケ・チュム先生でした。こんなふうに世界はつながっていくんですね。
桑山紀彦
いつも思うことですが、こう言うエピソードが自分のことのように一番うれしく感じます。
こう言う出会いが出来るのは、桑山さんが一生懸命歩いてきたことへの「ご苦労様」のご褒美だと思います。
よかったですね。
そうですね
よかったですね。
偶然が、
「それでいいんだよ!」と知らせてくれているかのような素敵な出来事。
私も、嬉しい気持ちをわけていただきました♪
『ありがとうの物語』が、また見たくなりました。
世界で活躍する桑山さんならではの出会いですね。うれしいですね。
二代にわたって知り合えるほど、長く携わって来たんだなあと思います。
人と人とのつながりの素晴らしさをこれからもステージで伝えてくださいね。
おはようございます。今日は雪。さすがに駅まで自転車でいけないので歩いて駅に出ました。が、自宅から数十秒歩いてすっころび、ビショビショになり一旦帰宅して全とっかえしました。
山口に住んでる時、知り合いの知り合いは知り合いじゃなと思っていました。東京に出て来て20年。それに近い状態になっていますが、さすが桑山さん。世界レベルなんじゃね。カンボジアに行くのが楽しみじゃね。
おはようございます。
日本だけでなく、ステキな出会い。人と人とのつながりって
共通なんですね・・・
改めて 人との出会いは自分にとって良いことも辛いことも、自分をプラスにしてくれる素敵なことだと日々感じております。
今日横浜は雪が降っています。
素敵なお話をありがとうございます。
私もこのお話から心がじんわりと温まったひとりです。
桑山先生がカンボジアに行き
日本で元気に暮らしている息子さんのお話をされたら
ケ・チュム先生がどんなに喜ばれるか・・・
それにしてもほんと、偶然の出会いも tomoko さんが言うように世界レベルですね(クスッ(笑))
被災地の少年少女たちは何を見たのか(週刊現代より引用)
被災地の子供たちが撮った写真を、子供たちのコメントととともに週刊現代は紹介している。
岩手県大槌町の小学3年生は「避難所の元気な姿を見てほしい」。
岩手県釜石市の中学3年生、「自分の生まれ育った町を記録したい」
宮城県石巻市の小学6年生、家族や級友を亡くした悲しみを振り払いながら、シャッターを押し続けた。北上川に掛かる虹を撮影すると、「天国に続く道みたいでしょう」といってほほ笑んだ。
釜石東中学校で吹奏楽部の部長を務める中学3年生は、音楽室にあったほとんどの楽器が流された音楽室を撮影しながら「多くのことを学び、たくさんの思い出ができた場所だから」といってシャッターを押す。
宮城県石巻市の小学6年生、約7割の同級生を津波で亡くし瓦礫で埋まる川の上にかかる雲を撮影しながら「雲を見ると、みんなが乗っているような気がする」と話した。
岩手県宮古市の中学1年生は自分の暮らす赤前の町は海がすぐ近くにある。「津波のせいで赤前の姿はほとんど変わってしまったけれど、夕日は変わらずきれいです」。赤前の海の夕日にレンズを向けた。
岩手県釜石市の中学3年生は、14年間暮らした自宅が津波で流され、「残ったのは、祖父の部屋にあったタヌキの置物だけ。震災前は、古くて、『早く捨てればいいのに』と思っていたが、今はとても大切に感じます」そういって、瓦礫の中のタヌキの置物を撮影した。
どんな困難にあっても、こどもたちは、こうして、未来を見つめ立ちあがっている。
和歌山 なかお
ほんとうに、繋がっているのですね。
私の妹家族も20年ほど前に 桑山さんと カンボジアで 出会い 今 私と地球のステージ仲間と繋がっている。
縁は異なもの粋なものですね。