この写真は3月19日(土)、震災後初めてのステージに臨んだとき、会場の愛知県大口町の町民会館で、母と再会したときのものです。
その日名古屋のBicカメラで購入したばかりのCanonのビデオカメラIVIS HF-G10という機種で明ちゃんがとってくれた一コマを写真に落としました。
このときのステージほど辛いものはありませんでした。でもそれを
「やらしてください。」
といったのは他ならない桑山自身でした。大口町もかなり迷われました。
「中止でも大丈夫です。」
とまで言って頂いていたのですが、そこをあえて
「やらせてください。」
と言い張ったのが桑山自身でしたから、どんなに辛くても人のせいにすることはできません。このときステージに踏み切った理由は二つありました。
一つは
「ちゃんと伝えていくための前哨戦。自分の心の整理をし始めなければ。」
というものでした。特に歩さんの死が重くのしかかり、心の整理とともに、
「しっかりしなきゃ。」
という気持ちを持たなければならないと思ったのでしょう。
もう一つは、ちゃんとステージをやっていくという姿勢を出さないと、ほかのステージがどんどんキャンセルになって、ステージ事務局が食べていけなくなるという恐怖感でした。
みんながそれで生活しているのです。
「桑山さんも大変だろうから。」
といってステージをキャンセルする動きが出ていたのです。それが進めば「地球のステージ」が崩壊してしまう。だから早いうちにちゃんとステージはやるのだという意思表示をしなければならないと思ったのです。
しかし、実際のステージは大変なもので、ほとんど涙声で、歌もろくには歌えていなかったと思います。それでも被災地から医師がやって来たというので、大口町の会場は満員となり、立ち見も出る状況でした。そんな観客の皆さんの、
「心配しているよ。」
というダイレクトな気持ちがまたさらに伝わってきて、泣けて泣けてしょうがありませんでした。その意味ではやれてよかったと思いますが、心の中では、
「自分だけ持ち場を離れてしまった。」
「みんなに申し訳ない。」
という気持ちが重くのしかかり、主催者の皆さんにも、応援にきてくれた皆さんにもまともに会話したり接したりすることができない状況だったと思います。
それでも、津波後の初演を終えてほっとしながら大口町の会場を出て、僕は母や兄たちとともに隣のAPITA(ショッピングモール)の中の回転寿し屋さんにいきました。兄が、
「今日はおごりやで、何でもおいしいものを食べてな。」
と言ってくれたのに、ろくに食事もとれていない被災地名取の仲間たちのことを思うと胸がいっぱいでほとんど食べれませんでした。それをおふくろがまた心配するので、
「ちょっとおなか壊しとるんや。」
などと下手な言い訳をしていたように記憶しています。
母親とはありがたいものですが、その一方で心配ばかりされると、
「大変なのは俺ばかりじゃない。もっと大変な人がたくさんいるんや。」
といいたくなり複雑な気持ちでした。でも母親は目の前にいる息子のことを一生懸命心配するものなので、ぐっと飲み込んで、
「ありがとう母ちゃん、逢えてほっとしたわ。」
などと少し素直になって言ったものです。その後、駐車場で短い再会の時間が終わってお互い別の方向に帰る時間が来たとき、兄が僕をハグして、
「お前はよう頑張っとる。そやで弱音吐いていいんやぞ。」
といわれた瞬間、心の中のダムは決壊して僕は号泣しました。
「兄ちゃん、オレ本当は怖いんや。オレはこの仕事、やりきれるんやろうか。」
「大丈夫や、お前はちゃんとやれる。そやけどな、難しいと思ったら高山に帰ってこい。オレは待っとるぞ。」
「…ありがとう、兄ちゃん。」
そんな会話でした。それからお互いが別のクルマに乗りお袋と兄たちは高山方面に、僕と明ちゃんは名古屋方面に向かいました。交差点で別れるとき、兄が手を降っているのが見えて、
「次はいつ逢えるんやろうか…。」
寂しさでいっぱいになりました。それでも岐阜北高校の公演のときにお袋と兄がきてくれて5月17日に再会を果たしましたが、僕自身は故郷高山にはずっと戻れませんでした。結局津波後初めて故郷の地を踏んだのは8月8日の夜でした。津波がきてからもう5ヶ月が過ぎていたのです。
故郷から離れて震災や津波の被害と戦うということは、辛いものがありましたが、それもこれもみんな被災地にいる「仲間」のおかげで押しつぶされることなく、ここまでやって来れました。
2009年1月のガザ戦争直下の空爆の中から出て、お袋と再会したときもハグしましたが、人間はこの「ハグする」=「抱き合う」ということができるすてきな生き物だと思います。最近は好んでいろんな人とハグするようにしていますが、その人の想いや気持ちが身体から伝わってくるので大好きです。
桑山紀彦
震災8日目の日ですね。お母様が桑山さんのお体をどれほど心配されたか、胸が熱くなる写真です。
被災地の皆さんが行方不明の家族と再会されたとき、あちらこちらで同じような場面がテレビで報道されました。
ステージでは力強く話され歌われる桑山さんですが、たくさんの方を支えながら、たくさんの方に支えられて日々すごされていらっしゃいますね。
私は震災で失くしたものの多さと、人に支えられる尊さと強さを感じました。以前は他人と思っていた見知らぬ人達も、今は辛い時を心配してくれた家族のように思えます。
この場をお借りして被災地に住む者より、皆さまありがとうございました。
そしていつも真摯にステージに向かわれる桑山さん、スタッフの皆さん感動をありがとうございます。
息子に戻れる桑山さんが、ちょっぴりうらやましいなと思いました。
3月19日の大口町での公演は、桑山さんのお気持ちや状況が痛いほど伝わってきました。湧きあがる涙から、言葉以上の何かをたくさんたくさん受け取りました。
仙台空港、ガソリンなどの物理的な障害も乗り越えて大口町までたどり着いていただけたのは奇跡に近く、強く意志を持つことの大切さを身をもって教えていただきました。
津波が奪ったものは多過ぎたけれど、きっかけに家族のかけがえなさに改めて気付くことができました。
お兄さんとのハグ、よかったですね。日本人も普通にできたらいいな‥2年前の正月、パニック障害(キャパオーバーで)に気がついたのがそのAPITAの中央口でした。対処薬で薬疹が出てボロボロな頃、ハグでケロッと直ったことを思い出しました。
地球のステージの会場では、久しぶりに会った人とハグしていいことにしませんか~(^.^)?
おはようございます。
お兄様のお言葉、私もほろりとしました。
お母様とのハグ、万感の思いですね。明ちゃんが撮ったビデオ写真なんですね。
明ちゃんがいつもそばで見守ってくれていて、本当に有難うという気持ちです。
ステージの再開を聞いて、桑山さんの強い意志を感じていました。
でも、本当にギリギリのところだったんですね。
桑山さんがこうして素直に気持ちを書いてくださることに感謝します。
これからも地球のステージを応援して行きます。
桑山先生と知り合ってもう七年ほどになるでしょうか。ボクが紀央館高校にいたころです。平和学習の講師として御坊市民会館に来ていただきました。そのとき以来のお付き合いです。
初めてボクが「気球のステージ」を見たのは前年の和歌山国際協力センターでした。これで感動したボクは紀央館高校でもぜひ公演して欲しいと考えました。そのときは、ステージ2とステージ3の公演だったのですが、ボクはステージ2に感動し紀央館高校の平和学習でもステージ2の公演をして欲しいと考えました。また事務局にもそうお願いしました。
ところが公演当日、開演まじかの御坊市民会館にて、桑山先生は「最初はステージ1からやります」とおっしゃいました。紀央館高校では初めての公演だからです。
ボクは「いえ、ステージ2をお願いします。ステージ2を見て感動しましたので、ぜひ生徒にも知ってもらいたいのでステージ2の公演をお願いします」
「それは駄目です。中尾先生、最初はステージ1からなんですよ。ですから今日はステージ1をやります」
「どうしても、ステージ2は、ムリですか」
「はい、そうです。最初は、ステージ1からです」
「しかたないですね。しょうがない。ステージ1からお願いします」
そういって、桑山先生とのつながりが始まりました。
それ以来、年に、一度か、二度、関西方面で「地球のステージ」があると出かけていきました。
今年に入って、二月の震災前の藤井寺での公演と六月の奈良女子大学での公演に出かけていきました。
一度か二度、桑山先生にお会いし、一言二言、言葉を交わすだけですが、桑山先生はかならず、手を差し伸べてきてくれます。奈良女子大学での公演のときもそうでした。
日本人はハグどころか握手さえめったにしない民族です。でも桑山先生はかならず握手して下さいます。このときは舞台の上で機材を片付けている桑山先生に迷惑も顧みず挨拶をさせてもらたときも握手してくださいました。これまで、何度となく握手してきましたが、震災後握った桑山先生の手は、やつれ、くたびれ、焦燥感のある手だったように思えます。震災前の握手とはあきらかに違っていました。
でも、肌が触れるって大切なことなんじゃあないでしょうか。人と人が出逢って、言葉ではなく、出逢ったということを実感できる行為なんじゃあないでしょうか。
ボクと、桑山先生がハグすることは決してないと思いますが、手は、今後とも握っていきたいと思いますね。
桑山先生、また、「握手」、してくださいますか。
ワカヤマ なかお
被災当初の桑山さんの、地球のステージへの思い・医師としての責任感・など想像していた通りでした。
素晴らしい決断の裏に大変な危機感と苦悩があったのですね!
多分、半年前にブログの皆さんが直感的に感じたのは、ステージ公演、海外医療ボランティアの過密スケジュールに加えて、被災地医療支援(しかも、通り一遍の関わり方でない・・・)をどうこなすことが出来るのだろうか?桑山さんのことだから、見て見ぬふり出来ずに、すべてカバーすべく動かれるだろう?
そうすると、ご自身の健康に支障が出ないだろうか?という懸念だったと思います。
初動期は乗り切れましたが、これからが長い旅路です。ご自身の体調管理も考えながらの活動を念じています。
お母様との写真を見て、ブログを読み また 涙しています。
桑山さんの根底に流れているもの家族の暖かさ、温もりからきたものなのですね。
よく 踏ん張ったですね。頑張ったですね。
時々は 気を抜いて ぼーっとしてくださいね!!
桑山紀彦様
どれほどお母様は心配されていたことでしょう。
顔を見せることは最大の親孝行と言えるかもしれません。
自分もあの日のステージを忘れません。紀くんや東北の皆さんの失ったものの大きさが伝わってきて、自分もステージの最中、ずっと号泣していました。以前、国際クリニックを開業した時もお母様、お兄様家族が高山から駆けつけ、抱き合って励ます姿を脇で拝見しました。紀君が頑張るその節目にはいつもご家族が側についてくださっています。本当に強く太い家族愛があるからこそ、紀君はこんなにも頑張れるのでしょうね!自分たち家族は足下にも及びませんが、少しでも見習って絆を深めていきたいと思っています。そういえば、ガザから帰ってきてすぐに東京で会った時にもハグしてくれてありがとう!
3/19 お母様に、「ご心配ですね。」とお話した所、「今日、会えたから安心しました。」と返事が返ってきました。会場に到着した時の桑山さんの表情が、堅く、つかれた様子を見て、ステージ大丈夫かな?ってちょっと心配になった事を思い出します。ステージ前とステージ後、会場の雰囲気が180度変わった事が印象的でした。
夜中に拳で殴って来たお兄さんに今度はハグして貰えて、兄弟っていいですね。お父様も見守って下さってる事でしょう。