新「広島平和記念資料館」への疑問

全館オープンとなった広島平和記念資料館へ行ってきました。

一部のみのオープンだった時、プロジェクションマッピングのすごさと、そういった展示の撮影を完全に「許可」している姿勢はすばらしいと思いました。SNSによる拡散を狙っているのだと思いますが、今の時代に合ったやり方なのだと思います。

そして今回、ついに全館オープンとなった資料館を歩きました。

そして…。

これはどうなのでしょう。行かれた皆さんの感想も聞いてみたいと思いますが、僕の視点は「子どもたちが修学旅行できた時に、この訪問の体験が心に残り平和の大切さを心に刻めるようなものであれば良い。」というものですが、その視点で見ると正直「外して」いるのではないか、と思ってしまいました。

まずは被爆された「個人」に焦点が当たっており、一人一人の生き、亡くなっていった物語を描こうという姿勢は分かるのですが、それがどのくらい子どもたちに伝わるのか、その構成に疑問を持ちました。展示の中には紫斑が出ている人間の舌とその周りの組織がありましたが、あまりにどぎつくて医者の僕が見ても「やり過ぎなのではないか」と思うほどでした。

見終わった人々は、一様に長いすに座り込み、ため息をついてうなだれていました。それはそれで大きな「効果」なのだと思いますが、それがこの資料館の果たす役割なのか…と疑問に思ったのです。

「生きたかったけれど生きられなかった命がある」という物語に触れ、「では生きている自分に何が出来るだろうか」ということを自ずと考えられるようになって資料館を後にすれば、きっと前向きに平和のこと、核兵器廃絶のことを考えられるのだと思いますが、「これでもかこれでもか」という強いトーンで、人の「死の物語」が押し寄せてくるので、圧倒されて思考力を失ってしまっていました。本当にこの展示で良いのか…。そもそもなぜ本館の展示が全て「トンネルの中」のように真っ暗な中の展示なのか。演出が濃すぎて見るものの受け止める「自由度」が非常に少なくなってしまっているように思うのです。見ているものの受け止めにはある程度の「自由度」が保証されるべきなのに、その自由度が奪われ、「こう感じてもらわないと…」という求めが強くでているように思えてなりませんでした…。

そんなわけで大変疑問の残る新「広島平和記念資料館」でした。おそらくリニューアルオープン後、あまり話題になっていないのは、その展示の方向性に課題が残っているからではないか、と思えてくるほど「迷っている」展示だと思えたのです。

あえて批判を恐れずいえば、課題の残るリニューアルであったということです。

皆さんはどう思われたでしょうか。

桑山紀彦

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