ワークショップ

 今日はみんなとワークショップです。

 いつも一緒に活動しているのはダルウィーッシュが代表を務めるエル・アマル学校に併設する「サナブリ・クラブ」の子どもたち。
 この子たちは学校が終わったあと、このエル・アマル学校に通ってきていろんな活動をしています。特に国境線の空爆地帯に近接して住む被害を受けた子どもたちです。だからある意味ケアの対称としては重要な子どもたちなのです。みんな家や家族を失っています。
 そんな子どもたちが今日は津波のことを学習し、そのあとで「日本の被害を受けた子どもたちへ」というテーマでワークショップを行い、作品を創ってくれました。
 まず最初は男の子のチームです。
 ステージ5の「ガザ危機篇2」で主人公となっているモハマッドはためらいなく切り絵で津波を形成していきます。誰よりも早く僕にFacebook経由で「大丈夫?」とコンタクトしてきたのがモハマッドですから、関心の度合いが違います。一生懸命「津波に負けないで」というメッセージの作品を仲間と仕上げていってくれました。
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 そんなモハマッドも今年で16歳になります。サナブリ・クラブに参加できるのは今回が最後かもしれません。
 男の子チームは、がっちりとパレスチナと日本が握手をして、お互い支え合っているよというメッセージを表現してくれました。なかなか力のこもった大作でした。
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 続いて女の子たちのチームです。
 モハマッドの妹、アッラーはいつもリーダー格でいろんな事を率先してくれます。今回は「手のひらの願い」というワークショップを行いました。
 これはベースになる絵を描き(それは樹木であったり、街であったりしますが)、それに自分の手のひらの形を切り取ったものに願いやメッセージを描き込んで、そのベース絵に張り込んでいくものです。自分の身体の形が願いを載せることによって、単に既成の葉っぱや短冊に願いを書くものではないところに意味があったり、それをベース絵に貼り付けるところに「意志」があったりして心理社会的ケアではよく使う手法です。
 ベース絵を描いてくれたのはアッラーでした。
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 左は樹木です。伸びる枝の先に日本とパレスチナの国旗が・・・。お互いが発展の中に存在し合っているという意味です。そして右はパレスチナの少女が両国の旗を持って一生懸命「団結」を訴えています。
 そこに一人一人が自分の手のひらサイズに描き込んだメッセージや願いを貼り付けていって、ワークショップの終了でした。
 ほとんどのパレスチナの子どもたちが今回の日本の被害を衛生テレビで見ており、非常にショックを受けていました。それはその破壊の状況がこのパレスチナそっくりだからです。でも彼らはイスラエル軍によって破壊されてきました。ある意味止めようと思えば止められる相手なのです(地震や津波は止められないけど)。
 そんな相手によって破壊されたこのパレスチナの方が、悔しさがにじんでいるようにも思えましたが、逆に憎しみの相手を特定できない(自然相手に憎しみを持ってもなかなか気持ちが治まらないのも事実です)津波被害の方こそ辛いという感じもしました。
 いずれにしても理不尽に家や家族を奪われた気持ちにおいてはこの子たちの中にある「共感」や「同感」は非常に高いものだと思いました。
 こうして遠いパレスチナからも子どもたちの精一杯の応援メッセージが届けられています。時間と空間を超えて人類がこの共通の痛みで現実感を持ち、その支え合いのなかでお互いが発展できますように。
 そう願う時でした。
桑山紀彦

ワークショップ」への4件のフィードバック

  1. モハマッド、もう16歳なんですね! 大人っぽくなりましたね。描いた絵に色をつけず、どうして色をつけないか話してくれたときの表情、そして、翌年は色をつけて、語ってくれた表情が目に浮かびます。鬱病で苦しんだ友達にこの話をしたら、凄くモハマッドの気持ち、言葉に共感して、それから地球のステージに足を運ぶようになりました!

  2.   ミニ・パレスチナ現代史
     1993年9月、「オスロ協定」が成立する。イスラエルのラビン首相とPLOのアラファト議長が、米国クリントン大統領の仲介によりパレスチナ人の暫定自治を認めた協定が結ばれたのである。これにより、自治政府が組織されガザ・エリコに先行自治が開始された。
     この和平協定の功績により、イスラエルのラビン首相・ペレス外相とPLOのアラファト議長がノーベル平和賞を受賞した。
     しかし1995年、和平反対派のユダヤ人青年イガール・アミンによってイスラエル・ラビン首相は射殺される。
     1996年になると、イスラエルに対するアラブ・イスラム原理主義者(ハマース、ヒズボラ、アルカイダ等)のテロがいっそうの激化を見せ始めた。2001年にはアメリカ同時多発テロがニューヨークを襲う。
     2008年12月29日、イスラエルのバラク国防相はハマースとの「全面戦争」を宣言すると、ハマースの本拠地と思われるガザ地区を、爆撃やロケット砲などで攻撃したのである。
     さらに、2009年1月3日夜、イスラエル軍はガザ地区への地上攻撃も開始した。
     桑山先生が医療支援に入ったのはちょうどこの時である。
     イスラエル軍はガザ地区を包囲し、三方から攻撃し出した。
     国連の藩事務総長は緊急声明を発表し、イスラエルのオルメルト首相に「深い懸念と失望」を伝えるとともに攻撃の即時停止を求めた。
     1月13日、ガザ市では地上戦に突入した。イスラエル、ハマース双方はこの頃、実質的にエジプトを介して停戦交渉中であったが、イスラエルはいっさいの譲歩を避けるため、一方的に停戦を宣言したのであるが、ハマースはこれを拒否したため、その後も衝突は続いた。
     1月18日、ハマース側が1週間の停戦を表明すると、イスラエルも納得し一応の決着をみた。
     1月21日、イスラエル軍はガザ地区から撤退を始めた。しかし、イスラエルはガザ地区の封鎖をその後も継続しており、ガザ地区はいまもその封鎖の中にある。
     そんな、ガザ地区に桑山先生は入ったのである。
       和歌山   なかお
                (参考文献:Wikipedia:パレスチナ問題)
     

  3. どこの国の子どもでも、感性は全く同じで分かり合えるのだということを感じます。
    イスラエルとパレスチナの子ども同士が会ったら、やはり笑いあえると信じたいですね。
    一人一人は皆、争いを好まないのに、国と国、大人と大人が集合するとなぜ争うが絶えないのでしょう?
    やはり、桑山さんんのような国際協力される人が沢山いて、知り合える顔を増やすことが、大切なことだと実感します。

  4. パレスチナの子どもたちの思いやりの気持ち、うれしいです。
    素敵な絵が出来上がりましたね。
    明ちゃんの笑顔も素敵です。
    たくさんの思いを受け止めて持ち帰ってくださいね。

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