入域が厳しく制限されているパレスチナ自治州ガザ地区。
僕たちはいつものように許可をとって入域を果たしました。ただ、今年は熱波が尋常ではなく、エレズの検問所のゲート通過の間、ひからびそうでした。
さて、ガザに入ってすぐにラファを目指しました。
もう通って8年になります。目指すはエル・アマル学校の子どもたちとのワークショップ。この子たちと一緒に心理社会的ケアを始めてもう3年目に入りました。あの2009年、ガザ戦争のまっただ中、このラファ市にあるエル・ナジャール市立病院の救急救命室で空爆の中働いて、半年目に心のケアを始めたのが出逢いでしたから、これで丸2年が過ぎて3年目です。毎回逢うごとに大人になっていく彼女たちを見ていると、こっちがドキドキしてしまいます。
さて、今回の絵のテーマは「自分のとってたった一つの大切なもの」。
みんな思い思いに絵を描き、発表していってくれました。
今回目立ったのは「日本とつながっている」というメッセージの多いことでした。
みんな津波のことはよく知っています。だから日本の子どもたちが一体どうしているのか、とても心配しているのです。
通訳のアーベッドが言います。
「パレスチナの子どもたちはいつもイスラエル軍の破壊という悲劇にさらされてきた。日本の子どもたちは今回津波という悲劇にさらされた。悲劇を経験したという点において、この子たちが持っている共感の念はとても強い。」
家屋や家族を失ってきたという点において、パレスチナの子どもたちは人ごとでなくBBCやCNNの流すニュースを凝視してきたのです。
そしてみんなで「日本の子どもたちの励ます描画とワークショップ」を行ったというのです。誰もそうしてと願っていなくても、ちゃんとそんな活動をしてくれていました。そこで明日はまず津波やその後の様子をスライドで映し出し、みんなに本当の状況を理解してもらいます。その上でガザの子どもたちから日本の子どもたちへのメッセージを集団画にして制作し、届けたいと思っています。みんなはもうやる気満々です。
明日が楽しみ。
さて、そしてダルウィーッシュとラファで再会しました。
ダルウィーッシュはエル・アマル学校の総裁にて、我がパレスチナの兄弟。
ガザ戦争の時はダルの家にずっと泊まり込みながら病院で働き、夜中の空爆の恐怖を一緒に味わい続けました。
「大丈夫、オレのうちには落ちないよ。」
と冷静なダルだけど、すぐ近くに着弾しては飛び起きる僕の横で彼はすやすや眠っていました。そんな戦友ダルは、17歳、20歳の息子と奥さんをラファに残し、エジプトで大学院に通っていたのですが、なかなか国境が再会せず2年ほどエジプト暮らしでしたが、この5月についにラファに戻って来れたのです。やっぱりダルとはラファで逢うのが一番嬉しい。
僕の好きなスイカをたくさん切ってくれました。
この時期、パレスチナのスイカは格別おいしいのです。
今のラファは直接的な空爆はなく、イスラエル軍もあまりこの国境の町を銃撃することが少なくなってきています。だから子どもたちは久しぶりに落ち着いた感じの暮らしをしていました。
でもまた空爆が始まるとイライラぴりぴりしてしまうんですけどね。
今日も美しい夕陽が沈んでいきました。
ガザの港です。
ふとここが占領されている戦場であることを忘れてしまうような自然の営みです。
ガザの人々は沿岸に暮らしてきましたが、これまで地震や津波のような自然災害は全くありません。希に弱い地震は経験するようですが、
「神様が怒っている」
といってみんな真摯に受け止めて来ました。でもさすがに津波というものは経験が全くありません。海が波立ってときに10M~20Mにもなって襲ってくるというイメージは持てないけれど、
「理不尽にひどい目に遭った。」
ということに対する共感と同感はものすごいものがあります。だからみんな私たち日本人に対していつにも増して優しいのです。
津波の被害を受けたことで逆にパレスチナの人々と一層心が近くなったような気がしました。
桑山紀彦
ガザの皆さんは人の痛みが直感的にわかる状況で暮らしてこられたのですものね。地震で辛い思いしている日本のこと心配して下さり、うれしいです。
ダルウィッーシュ先生(総裁)にお会いできよかったですね。
この震災で普通に暮らせることが大切であることを気づき、人に支えられたことに感謝できること幸せに感じます。
ガザの港では人々が海で憩いのひとときを過ごしているのでしょうか。穏やかな日々が続いてくれることを祈ります。
ガザに入れて良かったです。
ラファの子どもたちの気持ち とてもうれしいです。
彼らも 大変な生活を強いられているのに 東北のこと 思って心配していてくれること ありがたいです。
これも 桑山さんたちが 継続してきた ここのケア での出会いが あったからですね。
無事に入域、良かったです。地震がほとんどないガザの子供達。日本の今回の地震は何にたいするいかりと考えたんかなぁ。なんて。地球のステージの皆さんが危険をかえりみず何年も通っているからこそ、日本の事を心配し心を自分の事のように心を痛めてくれるんでしょうね。
東京は昨夜は雨が降りました。
無事にガザに入れて良かったです。
ダルウィーッシュさん、少しやつれたようにお見受けします。
2年もの間、帰国を待ったのですね。国境の非情さを思いました。
子どもたちが元気そうでうれしいです。みんなの絵を楽しみにしています。
とても暑いようですね。暑さに負けないよう美味しいスイカを食べて元気でいてください。
ミニ・パレスチナ史です
19世紀末、反ユダヤ主義の蔓延するヨーロッパに見切りをつけて、民族的故郷であるパレスチナにユダヤ人国家を建設しようとする運動(シオニズム運動)が沸き起こった。
第一次世界大戦が始まると、オスマン・トルコとの戦いを有利に進めたいイギリスは、ユダヤ、アラブ双方にパレスチナでの国家建設支援を約束するという「多重外交」を展開した。第一次大戦後、イギリスの委任統治領となったパレスチナはユダヤ人が大量に流入することとなった。そこで、その地域に住んでいたアラブ人と対立するようになったのである。以下、年表形式。
1947年 国連がパレスチナ分割決議案を採択
1948年 イスラエル国家建設(第一次中東戦争)
1956年 エジプト、スエズ運国有化宣言(第二次中東戦争)
1964年 パレスチナ解放機構結成
1967年 第三次中東戦争
1973年 第四次中東戦争
1979年 エジプト、イスラエルを国家として承認
1988年 パレスチナ国家樹立宣言
1993年 パレスチナ暫定自治協定
2001年 シャロンがイスラエル首相に就任
2003年 新和平案「ロードマップ」が提示される
2004年 11月、PLOのアラファト議長が死去
2005年 ガザ地区のイスラエル人入植地をすべて撤去
シャロン首相は「ガザ撤退後はヨルダン川西岸の大規模入植地を併合する」と発表する。これに対してパレスチナ側は、今回の撤退を歓迎しながらも、「われわれの目標はあくまでヨルダン川西岸と東エルサレムも含めた解放だ」と主張しており、混迷は今なお続いている。ー以上「今がわかる、時代がわかる世界地図2006年版より。-
桑山先生が行かれたガザは、イスラエル領でありながら、パレスチナ人に居住がゆるされた、パレスチナ自治区である。ここはいつも、イスラエルからの攻撃にさらされているのである。平和に暮らせる日々が、いつ訪れるのであろうか・・・・。それを願うのみである。
和歌山 なかお
中学3年生のクマと申します。
学校で始めて桑山sの公演をお聞きしてから・・・
自分の日々の生活を見つめるようになりました。
やはりすべてを変えるのは難しいですが、これから
少しずつでも自分を変えていきたいと思っています。。
素敵な公演をありがとうございました^^
ガザへ無事入国できてよかったです。
暑さには気を付けてください。
長文失礼しましたmm
日本のこの度の震災は悲惨なものでしたが、他の国々でも、大変困難な状況下にある人々のなんと多いことでしょう。
そのような国の子どもたちが、同じような苦しみ・悲しみを背負った日本の子どもたちのために、何かをしてあげようと思ってくれることに、救われます。そして、
「君たちのこと忘れてないよ、ずっと気にかけているよ」
というメッセージを苦しんでいる彼国の子どもたちに届けてくださる桑山さんのお陰で、日本は二度救われていると思います。