私たちにとって身近な携帯電話。そのひとに、その人なりの日常がしみこんだ携帯電話が宝物の人がいます。
生きていれば、それはいつでも更新可能で、つけていたアクセサリーだって付け替えればそれで大丈夫。録音されていた肉声も、何気なく撮られていたスナップショットも、万が一誤って消してしまってもそれはまた録音すればいいのです。でも、その携帯電話は違いました。万が一消してしまったらもう二度とその声を聴くことができない、もう二度と同じ写真は撮れない、そんな携帯電話を預かりました。それはその中にある音声データと写真データを安全に抜き出し、CDに焼いてどこでも聴けるようにするためです。
お母さんの声はとても澄んでいました。何気なく歌い始めるその様子が優しく、まるで我が子をあやすかのような歌が流れてきました。もちろんそれはその母子にとって特別です。他人の僕にとっては初めて聴くお母さんの肉声。でも、そのたった56秒の短い歌の中にそのお母さんの人生、日々の暮らし、娘への思いが詰まっていました。そして同時に愕然とするのです。
「この2ヶ月後に、このお母さんは亡くなってしまうのだ。」
ということを。できれば、そのお母さんに伝えたい、
「お母さん、3月11日に大きな地震が来ます。すると大きな津波が来ます。ちゃんと山の方に逃げて。万が一お父さんが戻ろうとしたら絶対に止めて。それでもお父さんが行こうとしたら、“2階の屋根に登って津波を避けて“とだけ伝えて。」
と。
でもそんなことは全く届かないように、素直な歌が聞こえてきます。
そして何本かの録音のあとに、家族へのメッセージが残されていました。
「どうか、お釈迦様、みんなに幸せがやってきますように。守ってあげてください。」
津波の到来は知らなくても、お母さんの家族への気持ちでした。それが肉声の遺言になったのです。
音声や写真をデータとして扱う時には緊張しました。万が一消してしまったら、もう取り返せない想い出なのです。それでもちゃんとCDにできてお渡しすると、涙とともに、
「これを時々聴きながらがんばります。」
とお言葉を頂きました。
いつまでも価値のある永遠の携帯電話です。
桑山紀彦
お言葉に甘えまして、HNのままコメントさせていただきます。
というのも、なんといいましょうか、この日記の内容が極めて絶妙なタイミングでした。
今回の震災以前から、私自身、極めて重大な危機感を感じています。
そのため、日本赤十字にお世話になり、救急員の資格をいただき、さらに、防災士の資格も取得しました。
ただ、今回、間に合わなかった点が1点残ってしまいました。
発災時、携帯電話は無力化することは誰しもが知っていることです。
回線システムの特性上、幅振作用が働き、緊急回線のみを残す作用のためです。
そのことに対応するためには、無線が必要になります。
私には、無線免許がありません。先日、ようやく4級を取得することができましたが。
この無力化する携帯電話は、発災時、ただの役立たずとしか考えていませんでした。
しかし、ここ数ヶ月、携帯電話のあり方を考えるようになってきました。
きっかけは、同僚が携帯電話をなくしたことにはじまります。
そのとき、やっと気付いたんです。
携帯電話は、単なる通信手段ではなく、もうすでに情報集積システムなんだと。
自分自身、全く意識していなかったのですが、改めて携帯電話に向き合うと、
自分自身、携帯電話に様々な情報が残されていたことを知りました。
今までは、携帯電話を思い出としてとらえたことはなかったのですが、
今では、考え方が全く変わりました。
今までは、壊れたら買い替えることしか考えていませんでした。
今後の支援活動に余力があればなのですが、携帯電話を回収することも記録の一つに
なるかもしれません。
もちろん、プライバシーの問題がありますので、今すぐ実行できることではありません
でしょうが。
ご遺族、あるいは、持ち主の許可が取れる範囲で、ということになるでしょうが、
津波祈念資料館に欠かせない資料になるのではないか?と考えていたところでした。
あまりにもタイムリーすぎたもので、驚きながらコメントさせていただきました。
人には寿命がありますが、資料は適切な保存状態を確保すれば、半永久的に伝えること
ができます。
復興とともに、どのような資料をどのような方法で保存するか?議論も必要だ
と感じています。
大切な人の声や触れた物は、その声を聞いたり、その物に触れたりすると、そばにいなくて悲しいけど、大切な人がそばにいるようで、心が安らぎます。
思い出を残してくれてありがとうございます。
4月1日から14日までボランティアさせて頂きありがとうございました。
不眠不休で頑張っていた地球のステージのみなさんの姿が焼き付いています。
(余震の時の桑山先生の逃げ足の速さも忘れられません)
震災から今までもずっと休む暇もなく、活動されていると思います。
どうかお身体には気をつけて下さい。
ボランティアさせて頂けたことに感謝しています。
本当にありがとうございました。
また、できる事を探して参加したいと思います。
私の友人は数年前に、20歳になったばかりの息子さんが病気でなくなりました。生前、息子さんが使っていた携帯を今、私の友人が大切に使っています。
そして、私も、友人が亡くなる前にくれた?を大事に保存しています。
辛い辛い、重い重い仕事ですね。決して消してはならない、母の声。CDに焼き付ける。
僕にはとてもそんな重い仕事はできません。また、CDに焼き付けて欲しいと桑山先生に依頼した人の辛く悲しい出来事が目に思い浮かびます。それを聞き、勇気づけ、あなたの大切な思い出をCDに焼き付けてあげよう、そういう桑山先生のこころも耐え難いものではないでしょうか。
最近考えます。わたしたちが生きて行くということは空想の世界で生きて行くということではないのだと。
現実の世界で生きるといことは大変なことなのだと。
なぜなら僕はいつも空想の世界で生きていくこを願ってばかりいるからです。
そんなことは決して出来ることではないのにそんなことを願うぼくには、到底できない、辛く、重たい仕事のように思えてしまうのです。
しかし、それができる桑山先生には、人々のこころの命とからだの命が託されているのだと思います。
どうか、どうか、携帯電話の声を、CDに焼き付けてあげてください。
僕にはとてもそんなことはできないのですから。
和歌山 中尾
携帯電話に残る声。CDに移せて良かったですね。
大変緊張する大仕事を成し遂げられて、流石桑山さん!と思いました。
いろんな形で思い出を紡ぐことができるのですね。
私は以前、携帯の通話を記録した大切な人の声をテープに再録しました。
メモリカードがなくてレコーダーのマイク部分を携帯に押し付けてでしたが…。
気が付けば、携帯電話にしか入れていない情報がたくさんあります。
いざという時のためにバックアップも必要かなと思いました。
娘さんに、お母様のたいせつな大切な思い出の肉声が残されて良かったですね。お母様の優しさ・ぬくもりを感じながら、前に向かって歩いて行かれることをお祈りしています。
HNさんの書き込みの
『発災時、携帯電話は無力化することは誰しもが知っていることです。
回線システムの特性上、幅振作用が働き、緊急回線のみを残す作用のためです。』
知りませんでした。災害時に携帯が繋がりにくくなるのは、皆が一斉に携帯を使うからだとばかり思っていました。
そして、愚かなことに、地震=津波の心配というのも、実は震災の日まで知りませんでした。
あの日、地震の直前まで、港付近・埋立地の映画館で『ヒアー アフター』というクリント・イーストウッド監督の映画を見ていました。この映画は、スマトラ沖地震の津波の映像から始まったのです。「地震が来ると、海辺に津波が来る」「津波はこわい」ということを心にしっかりと刻んだのは、映像を見たからでした。まさか、この映画を見終わらないうちに、震度5強(この地の震度)の地震に見舞われるとは・・・。屋外退避をしてから、一緒にいた友人と「ここ埋立地だし、海のすぐ側だし危なくない?」と会話をし、そこから逃れたい一心で歩き始めました。
今の世の中、どうでもいいことが多すぎるような気がしていますが、その中でも、知っていれば状況はずいぶん変わるかも知れないということはたくさんあると思います。
膨大な情報や人との様々な関わりの中で、生きていく上で本当に大切なものは何か・・・ということをもっと真剣に探っていかなくてはならないと思っています。