いよいよ心理社会的ケアが始まりました。
これほどのトラウマの物語があるでしょうか。目の前にいる子どもたちがみんな「死」を目の当たりにしていました。南スーダンにおける武装闘争はこれほどまでに子どもたちの心に影を落としています。みんな間違いなく、家を焼かれ、肉親を殺され、命からがらで逃げて来ています。その壮絶な体験を感じさせないような始まり。それはドクトルKの「上を向いて歩こう」の独唱からでしたが、みんな大いに盛り上がってくれました。
でも今日のテーマが「忘れられないあの日」であると伝えた瞬間、全ての子どもたちが目を伏せました。それは明らかにトラウマを持っているからです。しかし、ウガンダ人の3人のファシリテーター、ハリエット、アリス、サントは見事に問いかけを繰り返しながら子どもたちへ「何を書いてもいい」「何を吐き出しても受け止める」というメッセージを伝えていきます。
そんな3人のファシリテーターもまた壮絶な体験をしていました。
ハリエットはお父さんが何者かに毒殺され、苦労の道を歩んできました。アリスは2歳の時に飛行機事故で両親を失っています。サントはゲリラに大好きだった兄を連れ去られ、20年以上会えていません。それらをしっかりと「忘れられないあの日」の例題として絵に描き、自分自身の中にも「向き合う」ということをちゃんと課しているファシリテーターたち。唯一の日本人として現場に入ったMPJの片野田さんの手腕が光ります。
導きすぎないこと、答えを用意しないこと、涙を恐れないこと。ちゃんと伝わっていました。
そして子どもたちは「忘れられないあの日」をみんなで描き、その発表においてほぼ全ての子どもたちが涙を流していきました。
今日の僕からの「指導」はたった一つ。「泣かれることを恐れてはならない。チャンスと受け止めていこう。」ということ。ファシリはひるまず涙に向き合っていってくれました。
中でも頑張ったのは19歳のベティでした。自己紹介もはきはきと笑顔が美しいベティでしたが、描かれた「忘れられないあの日」には椅子に座る両親と紫の衣に横たわる人の姿でした。
「私の両親は私が12歳の時にゲリラに殺されました。あの日のことは忘れない。両親は美しい木の椅子に座って談笑するのが大好きだった。そんな両親をゲリラは奪っていきました。
あのお葬式の日、両親の身体を包んだのは真紫の美しい衣でした。私はその時に誓いました。正しい法律家になってこの世の正義を貫く、と。」
ここでベティはぼろぼろと涙を流しました。すかさずハリエットが背中をさすりながらいろんな質問をしていきました。僕も横にいて聞きました。
「もしも両親が空から見ていて、今のベティに言葉を贈るとしたらどんなメッセージだろう。」
「自分の代わりに夢をかなえなさい、と言っていると思う。」
「そんなご両親にメッセージを送りますか?」
「私は負けない。何が何でも法律家になって夢をかなえる、と伝えたい。」
愚かな軍部と政治家が繰り広げる内戦、紛争。素直で優しい子どもたちの心を「トラウマの刻印」を打ち付けるハンマーが打ち砕こうとしています。でも、トラウマを心の中にしまい込んだままだったらやがて心はむしばまれてしまいます。今日、この場で共に涙を流し合ったことを一つの礎に、明日からもワークショップを続けていきます。
アフリカの国の中にはこんなふうに強く、深いトラウマを受けている子どもたちがたくさんいることを改めて知りました。普通に暮らしている、難民ではないウガンダ人にも多くのトラウマがあります。そのトラウマにいよいよ向かい合う時が来ました。アジアで、中東で展開してきた心理社会的ケア。ついにアフリカに進出しました。
MPJは順調にこの仕事を続けていけそうに思います。今回はたった4ヶ月だけど素晴らしいファシリテーターが育ってきています。
僕が片野田さんを指導して、片野田さんが現地のスタッフを指導する。そんなやり方が通用するのか、不安もありましたが、心理社会的ケアの手法は非常に普遍的であることが分かってきました。普通に受け止めても無理なく展開することができます。もちろん所々で専門家が入り、軌道修正やてこ入れ、知識のリマインドなどは必要ですが…。
明日は粘土細工、明後日ははりがねの人生、そして最終日は音楽ワークショップを行って行きます。
外は雨期の終わりの雨が滝のように降っています。電気は夜には落ちます。それまでにこのブログが送れるか。ウガンダ北部はなかなか生活的にも厳しい状況です。
桑山紀彦