今日は閖上小学校、中学校の親御さんたちとの「心のケアの研修会」でした。
名取市教育委員会の瀧澤先生、そして両校長先生に今回両学校が校舎を借りている不二が丘小学校の校長先生もおいでになり、研修会が始まりました。
平日の午前中でしたが予想を遙かに超える50人近いお父さんお母さんが集まってくれました。みんなやっぱり心配なんだと思います。
最初に閖上小学校の校長先生がおっしゃいました。
「今日は、皆さんに謝りたいと思ってきました。
私たちは最初津波警報が出て、みんなで校舎の3階に避難しました。引き取りたいという親御さんもいらっしゃいましたが、まだ危険が去っていないということで私たちは引き渡しをお断りしました。
しかし津波の到達時刻になっても津波がきませんでした。10分が過ぎて、安全かもしれないと判断した私たちは生徒たちを親御さんに引き渡そうと、校庭に降りていきました。
すると、遠くから津波がきたのです。私たちは急いでまた校舎の3階に登り、難を免れ犠牲者を出さずにすみました。
しかし一時であれ、子どもたちを危険にさらしたかもしれないことをずっと謝りたいと思っていました。
本当に申し訳ありませんでした。」
僕は涙が止まりませんでした。
校長先生、先生方は一生懸命子どもたちの命を守ろうとしていたじゃないですか。必死に守って守って、親御さんが「渡して」といっても断り、その責務を果たされました。あのとき親御さんに返していたら、犠牲になった子どもが出たでしょう。でも先生たちは慎重に慎重に対応を考え、子どもたちを守り抜きました。
確かにあのとき津波は予定時刻を過ぎても来ませんでした。多くの閖上の人々が語っています。だから校庭に一旦子どもたちを降ろしたのも、全く当然。誰でもそうすると思います。そして津波の襲来がわかって全員を避難させ、見事に全員の命を守り抜きました。
閖上小学校でなくなったたった一人の生徒さんは、たまたまお家にいましたから。
でも、先生はずっとこのことを気にしていらっしゃったんだと思います。そう、先生たちも深く深く傷ついていらっしゃいます。だから、先生たちも語る必要があると思う。校長先生の語りは、私たちの心を打ちました。校長としてやれるだけのことはやったけれど、後悔が残る・・・、教師一筋で真剣に教育に携わられてきた校長先生は、ちゃんとそのことを伝えたかったんだと思います。
立派な校長先生でした。
ひとしきり研修会が終わり、質疑応答のコーナーになった時、一人のお母さんが勇気を出して発言されました。
「私はあのとき、仙台で仕事していました。小学校2年生の娘は、校舎の3階でさぞ不安だったと思いますが、なんとしても小学校に行きたかったけど、水が深く、道も落ちていて全く近づくことができませんでした。それでも何とかそこへたどり着こうと必死にがんばったんですが、やっぱり無理でした。
水が引いて、翌日娘に会いました。
そしてそれ以来、私はずっと娘に「なんでお母さんあのとき来てくれなかったの?」といわれ続けています。もちろん、事情は説明しました。でも2年生の娘にどう説明してもなかなか伝わらないんです。
「母親が助けに来てくれなかった」
その思いがずっと心の傷になったらどうしようと思って哀しいんです。」
僕は応えました。
「お母さん、どんなことがあっても、娘さんがそのことを理由に心の傷が消えなかったり、ずっとお母さんに不信感を持ったりすることなんて、あり得ません。
今お母さんはそこにいます。いつもいつもそばにいます。
それは、しばらくは「どうしてきてくれなかったの?」といわれ続けるかもしれないけど、その疑問はやがて静かに、でも確実に消えていきます。なぜなら、今お母さんはその娘さんに安心感を与えようとがんばっているからです。日々の努力が、一瞬の出来事に負けるはずがありません。だから安心して、いつかわかってもらえる日が来るまでちゃんとあの日のお母さんの行動を伝えていきましょうね。」
午後の外来には閖上で働いていた公務員の義治さんが来てくださいました。
「あのとき、地震で部屋の中はひどい崩れようでした。辺り一面戸棚のものも散らばって足の踏み場もありませんでした。だから4人で片付けていたんです。
そしたら、うちの職員の一人が窓の外を見て“あ、津波だ!”と叫んだんです。
見れば公民館の屋根を越えて黒い水がバリバリと襲ってくるのが見えました。
私たちはすべてを捨てて一目散閖上小学校の方へ走りました。みんなが生協の前の道を必死に歩道橋の方へ走り出しました。水はものすごい勢いで迫ってきます。
前を走っていたクルマが止まり、ドアを開けて小さな子どもを抱えたお母さんが降りてきた姿を覚えています。買い物の時に使う車輪付きのカートを必死に押しながら逃げるおばあちゃんの姿も・・・。でも追い抜いてしまいました。
今思えば、どうしておばあちゃんを抱えて走らなかったのか、そのお母さんの子どもだけでも抱えてあげなかったのか、後悔ばかりです。
必死に走ってようやく閖上小学校の手前の歩道橋の上に登りました。
直後黒い波が来てもうだめかと思いました。さっきの子連れのお母さんやカートをひいていたおばあちゃんが流されていくのを見てしまいました・・・。
もう一生忘れられません。
まるで映画を見ているようでした。
歩道橋の上には50人以上の人がひしめき合って、自分の街が、人が流されていくのをなすすべもなく見ていたんです。
それ以来私はずっとその時の情景を夢に見ては眠れなくなっているんです。」
義治さんは顔をくしゃくしゃにしながら泣きました。
語りが始まっています。
2ヶ月を目の前に人々は語りを始めています。それで良いんです。今ちゃんと語って、今しっかり涙を流しておかないと、心の中に変に残ってそれは心の傷の後遺症になっていってしまいます。
校長先生、お母さん、そして義治さん。
皆さん、立派に語ってくださいました。その心の叫びを僕は受け止める。涙が止まらないけど、それを受け止める。そしていつかみんなの心が少しずつ軽くなっていく日が来るまであきらめないで、聞き続けていきたいのです。
それは「物語化」という大切な心
のケアのプロセスだからです。
のケアのプロセスだからです。
今成田空港です。
29日の朝、インドネシアのジャワ島に飛びます。2日の朝には帰国していますのでずいぶん短い旅ですが、かつてジャワ島中部で大震災がありました。
その大震災の中、心のケアをした僕はリサという少女と出会っています。リサたちとは2年にわたって音楽会を行い、2年目は「Ayo Bankit!(さあ、立ち上がれ!)」というオリジナル曲を創ってみんなで歌い演奏しました。そのリサに会いに、そしてあの被災地にもう一回戻ります。この時期に?と思われる方もいらっしゃるかもしれません。でも病院は乳井先生(外科医)や木原先生(広島の小児科医)がちゃんと守ってくださっています。24時間は健在です。
このジャワ島の予定は津波が来る前から入っていたのですが、いったんはキャンセルしようとも思いました。でもやはりここは行くべきだと思ったのです。
それは、あれから数年が過ぎて僕たちがやったジャワ島における心のケアは、果たして子どもたちにどれくらい役に立ったものだったか、ちゃんと自分で確認したいのです。
2年ほど前「ポストマン」という番組で、タレントの陣内君がリサを尋ね、
「あの心のケアのおかげで本当に心が軽くなった」
と語ってくれているリサですが、今回は震災のまっただ中に見置いている僕がちゃんと自分の耳でリサの言葉を聞きたいのです。
図らずも土曜日はリサの学校で津波被害の報告会をさせてもらえることになりました。
数年前ひどい震災の被害を受けた子どもたちが、今度はひどい津波の被害を受けた僕の話を聞いてくれます。
インドネシアの子どもたちのとの交流を目指してきます。
桑山紀彦
行ってらっしゃい。流れに乗っていくことが、つながっていくことです。余計なことは考えずに…。「余計」とは計算すること…今は、まかせることが大切です。自我が無くなっていってる…。計算しないことです。気をつけて。
今だからこそ行かれる先生方、
お疲れの中、お体を充分 ご自愛ください。
私たちは 私たちができること、進めていきます。
帰国後のご報告を楽しみにしています。
たくさん泣いて語ることが大切なんですね。リサさんの話にとても興味があります。人の心が治癒していくプロセスを確かめてきてください。帰国後のお話楽しみにしています。飛行機の中でゆっくり眠れるといいですね。行ってらっしゃい!
桑山さん、いってらっしゃい!
「それが必要」
と、心が命じるままに、行動しましょう。
直感を信じましょう。
今は新月の前で、ひかる月は見えませんが、空を見上げて歌っています。「ふるさと」の替え歌です。
ひかるつきを みあげて
おなじときを いきてる
そらはひとつ どこまでも
ふるさとは このほし
南の風に吹かれて、良い気を体に通してきてくださいね。
テレビの映像をみながら、地球のステージの映像が頭の中に浮かびます。日本も島国だから、津波で大変な事になるかもとおもいながらみてはいたものの、まさか、こんな現実が襲って来るなんて想像だにしていませんでした。りさちゃんをはじめ子供達が何年もたっているにも関わらせ、合唱しているのを見て、数日のプログラムがどれだけ大切だったか物語っていた気がします。閖上の皆さんも沢山言葉で吐き出して涙を流して、前進して欲しいです。
49日の法要で104人中87人の児童、13人中10人の先生(人数が違ってたらすみません。記憶力がいま一つなもんで)が死亡か行方不明の学校の記事を新聞で見て胸が苦しくなりました。命の助かった皆さんの心の傷がゆっくりで良いので一日も早く癒されます様にと願わずにはいられませんでした。
21日に亡くなられたキャンディーズのスーちゃんが、「天国で亡くなられた方々のお役に立ちたいと思います。」というメッセージを残していましたが、亡くなった方も色々な思いを抱きながら命の火が消えて行ったんだろうなぁと思いました。短期間の滞在ですが、きっと沢山の収穫もあるはず!
今だから 行ってきてください。
きっと リサさんたちが 力をくれるでしょう。
そして 日本の子どもたち おとなたちのケアに活かされるでしょう。
クリニックで診療される先生方 あとを よろしくお願いします。
桑山さんいってらっしゃい!
明ちゃんも一緒に行かれるのかな?
今日の夕方、17時~18時の間、以下の2つの局で桑山の日々の診療、心のケアについての番組が放映されます。
1)TBS Nスタ。震災特番
2)テレビ朝日 同じく震災特番
ニュース枠の、5,6分だと思いますが、一応桑山の特集番組のはずです。夕方のニュース枠ですが、ご覧下さい。
ちなみに1)のTBSの方は、「津波祈念資料館」についての話題です。もちろんまだ建物は建っていませんが・・・。
桑山紀彦
語ること、心の内を吐き出すことが、大事なことなのですね。
それを受け止め続ける桑山さん。いくら専門家でも桑山さんの心は大丈夫なのかしら、と心配になります。
桑山さんも語ってくださいね。
リサちゃん、懐かしいですね。もう娘さんという年頃ですよね。元気でいてくれるかな。
地球のステージの「つながり続ける」努力が素晴らしいと思っています。
相変わらずの強行スケジュールですが、どうぞお気をつけて。
こうやって、読んだり聞いたりしかできなくて…それでも、読む者、聞く者のできることがきっとあると思っています。
だから先生、行ってらっしゃいませ、です。先生にだけできることがあるはずです。
心の慟哭の「語り」に涙があふれました。
祈るのみです。
桑山先生から「心のリレー」のバトンタッチを受けて 奈実香先生 乳井先生 木原先生と看護師さんたち 皆さん 頑張ってください!!
インドネシアの明るい陽射しは桑山先生の心も明るくしてくれるでしょうか?
ノルウェーにもやっと春が来ました。
夜も10時ぐらいまでは明るくなりました。
先生!
先日はご挨拶もできずスミマセンでした。
実は,私たちも語り始めています。
あの瞬間見たものを。
子どもたちと,もっと話したい。
そう思っています。
お陰さまで今日からの3連休,バスケ部は休みなしです。
せめて大汗くらい,かかせてあげたいと思っています。
お帰りをお待ちしています。
夕方TBSだけ見ることができました。
お忙しすぎる先生が、冷静に(当たり前?)たくさんのことをされていてすごいなと思います。たくさんの患者さんの言葉を真剣に受け止められ、いつも診察後は心が暖かくなります。ありがとうございます。
今は1日をやっと過ごしていますが、自分のペースで生活していきます。
今はインドネシアで変わらぬ笑顔で活動されていらっしゃるのでしょうね。リサちゃんや皆さんのご様子お話して下さいね。
出張で大阪へ行った帰りである。
天王寺から特急に乗り電車の中で読もうとして席に座り、文庫本を開いたときである。隣の青年が読書していることに気づいた。一瞬ドキッとした。よく見るとなんとipadで本を読んでいるではないか。はたしてipadを本といっていいどうか疑問だが、とにかく僕は驚いた。
世の中に電子書籍というものがあることを話には聞いていた。機器のなかに何千冊もの本を閉じ込め、それらの本を自由に読み飛ばすことができるという魔法の携帯図書館とでもいうべきもの。
その青年は薄っぺらい四角のディスプレイを真剣に見つめ、目線の先には二十行ほどの文字が並んでいる。彼は時おり指先でディスプレイをタッチしページをめくっているようだ。僕にとってはまさに異次元の世界だ。
僕は彼に恐れを感じた。
僕は自分の席に座り直すと、前時代的な様子で静かに文庫本を読み出した。中身は三島由紀夫の短編集である。読んでいると三島先生にはやはりすごいなと一人悦に入りながら紙のページをシワシワと音を立てながらめくっていった。
五ページぐらい読み進むと、車掌さんが切符の点検にやってきた。切符を差し出すと、隣の青年も僕と同じように符を差し出した。
ipadの異次元の世界の彼に話しかけた。
「ipadですよねこれ。すごいですね、これで本を読んでいるんですか」
「はい、そうですよ。何冊も入っているので便利ですよ。たくさん持ち歩かなくてもいいし」
「凄いですよね。いったい何冊ぐらい入るんですか」
「容量によって違うので一概にはいえませんけど、これで6ギガぐらいですから数千冊っといったところでしょうか」
「ひぇー、ぶったまげるなあー。いったいどんな本が入っているのですか」
「標準では、入っているのが、海外の名作とか、ですかねえ。グリム童話とかアンデルセンとか。日本のものだと芥川龍之介とか太宰治です」
参った。仰天。
芥川先生も、太宰先生も、自分の文学が宇宙人が開発した機器のなかに入り、ディスプレイをタッチして読まれることなどとは、天才といえども想像だにしなかっただろう。天国で芥川先生、太宰先生、なんと仰いますか。
僕は、ipad青年が何を読んでいたのか気になったので尋ねた。
「ちなみに、いま読まれていたのは何ですか」
「蠅男です」
「えっ、それって、本当ですか」
「知っているのですか」
「知ってるもなにも、日本SF界の始祖で海野十三という人の傑作ホラー小説じゃあないですか」
「よくご存知ですね」
「小説が電子機器のなかに入ること自体がSFですけどね」
おじさんの僕としてはまさにそうとしか言いようがない。
「たまたまタイトルが面白そうだから読もうと思っただけです。海野十三とかいう人は、ぼく知らないのですけど」
「大正から昭和の初期にかけてのSF作家ですから知らないのも無理はなにのですけど。でも、電車の中で、読書するって凄いことですね。いいことですよ。それに、旅行って感じするし」
「旅行じゃあなく、連休で故郷へ帰るだけですから。東京で働いているので」
「そうですか。東京も余震やら、計画停電やらで大変でしょう」
「東京の街は暗くなりました。スーパーでも営業してるのが分からないくらい。電車も昼間は車内の電気を切ってます」
「そうですか。震災までが、あまりにも明かるすぎたんじゃあないですか」
「そうですね、そうだと思います。いまぐらいが一番いいですね。でも電車の中のエアコン切っているのは辛いですね。満員電車だと蒸し暑くて」
「それは大変」
「これくらいは辛抱しなくちゃあってみんな思ってるんじゃあないですかね。東北で被災した人たちはみんな大変だから」
「私たちも少しくらい辛抱しなくちゃあね。いつ大地震がくるかもしれませんからね。私たちの東海、南海地震がそそそろ来るかもしれないわれているじゃあないですか。東北の人たちのことは、人ごとじゃあないですよね」
「実は、ぼくも、来月、被災地へに行くんです」
「本当ですか」
「東京の会社の関連会社が陸前高田にあって、会社命令で寝袋持って支援に行くんです」
「陸前高田といえば、一番被害が大きかったところじゃないですか。これから大変ですね。どんな支援をするんですか」
「支援物資を運んだり、瓦礫の撤去とか、食料の配達とか、とにかく体力仕事をするらしいんです。総合庁舎に泊まって寝袋で寝るそうなんです。もちろん、風呂はありません」
「それは、ご苦労様。大変ですねえ」
「いえ、会社命令ですから。とはいえ、いま、日本人だれもが、そう思っているんじゃないですか。いま助け合うとき。きっと、ぼくだけじゃあないと
インドネシア、スラウェシ島からです。
昨年二本松で「地球のステージ」を拝見させていただいた者です。
桑山先生のブログ、毎日拝見させていただいています。
名取の、仙台の、宮城の、岩手の、報道では表に出てきにくい「今」を知ることができ、目が離せません。
私は大学時代が仙台で第二の故郷と思っており、今回の震災は身近で衝撃です。海外からできることはないのかと、もどかしく思っています。募金、インドネシアの人達も共感し、心配し、応援していることを伝えること、目の前の仕事を丁寧にすること・・。
今もう、先生はジャワにいらっしゃるのですね。
今日、リサさんの言葉どんな言葉が発せられるのでしょうか。規模や被害は違えど、お互いが震災経験者、共感しあう部分も多くあると思います。「語り合う」ことで、何か感じ合い、癒しが生まれるのではないかと思います。
今日がまた一つ幸せを喜びを見つけられる一日になりますように・・。先生はジャワ島で、みんなはみんなの場所で、
私は、スラウェシ島の自分の持ち場で・・。