僕たちは年間100回以上仙台空港を利用してきました。
いつもいつもこの空港から全国の公演の地へ旅立ち、そして戻ってきました。僕たちにとって全国の皆さんとつながる、世界とつながる、その始まりはいつも仙台空港でした。
ギターを背負った2人組が息も切れ切れに夜の20時過ぎ、仙台空港の全日空カウンターに駆け込んできます。
「すみませ~ん、久保さん!札幌便、お願いします~」
「わかってますよ。大丈夫、十分間に合いますから!」
そして20:50の札幌便に乗って翌日の北海道公演に備えるのです。
そして戻ってくるとターンテーブルで話しかけられる。
「いや~、先生いつも忙しいですね~。今日は札幌便ですか。あれ?昨日は確か中部国際空港便で帰ってきてませんでしたっけ?」
「昨日は岐阜公演で、今日は札幌公演だったんです」
「身体壊さないでくださいね~。あ、ところで今度先生のクリニックにインフルエンザのワクチン打ちにいきたいんですけど、だいじょうぶですか?」
「大丈夫ですよ、東山さん。うちの副院長、奈実香先生がいつでも待ってますよ」
こうして支えられてきました。
たくさんの知り合いに支えられて、仙台空港はもう自分のうちのように接してきました。
ギターを受け取って出口に進むと、いつもそこに待ってくれている人がいます。それは「朝日パーキング」の社長、菊地さん。
「いや~せんせ、いつもよくやるなあ。」
「菊地さん、いつも出迎えてもらってすみません。明日は福岡便なんで、朝の7時半にはクルマ持ってきますから、よろしくお願いします。
「あ~、まってるよ。せんせたち、立派なことやってんだから、俺それ支えてんだからね、気にしないでね」
こうして朝日パーキングのみんなとも仲良くしてきました。時間がない時はもう直接空港の真ん前にクルマで乗り付けて、鍵をつけたままチェックインカウンターに走ります。2分後、朝日パーキングの人が僕のクルマを受け取りにきてくれます。
これまで、何千回も繰り返してきた日常。「普通の暮らし」。
それはすべて失われてしまいました。
仙台空港
朝日パーキングの菊地さんが行方不明なのです。
朝日パーキングのあったはずの場所には何も残っていませんでした。まるで悪夢のようだ。夢であったら冷めてくれと願わざるを得ない光景でした。
ここに朝日パーキングの社屋がありました
ネットを通じて菊地さんの安否を知っている人を捜し当てました。しかし電話口では、
「私たちも探してるんです。
あの日、うちの叔父は家に戻っていたと思います。弟の菊地はクルマで仙台空港に逃げましたが、安否は知らないといっていますから。
うちの叔父の家は川のほとりで、この前行ったら何もそこには残っていませんでした。岩沼市内の避難所を探しましたが、見つかっていないんです。」
また僕の身近に「行方不明」が襲ってきました。
菊地さんの家があったあたり
またいつものように仙台空港に駆けつけて、みんなに支えられながら飛び立って、また暖かい人の待つ仙台空港に戻ってきたい。
全国のステージを続けてきたことでつくり上げてきた人のネットワークとシステムはすべて失われてしまいました。
それでも、皆さんが全国でステージを呼んでくださる限り、僕たちは山形空港から飛びます。この秋に、不死鳥のように仙台空港がよみがえる日が来ることを信じて。
さて、いよいよ心のケアとしては第2段階に入ってきました。
今週の金曜日にサッカー大会を計画しています。子どもたちの心のケアはスポーツから始める予定で今調整中です。
今日の夜のミーティング。3つの団体に、なんと徳島県のNPO法人TICOから、吉田先生が駆けつけてくださいました。現役の医師であり、AMDA時代の同僚でもある吉田先生は徳島から、クリニックを支えるためにクルマでやってきてくれたのです。
この人間の力に感謝
桑山紀彦
なんとか力(りょく)とかが、はやってきてたけど…結局は「人間力」なんですよね。人間本来が持ってる「力」…それはすごいですよね。…それにしても…今回のブログ読んで…涙…です。今回のことが、けっして一過性のもので終わりませんように…。根本的なところの「見直し」を全国の人がすれば、日本はすばらしい国(仲間)に再生します。それは、世界を変えることにもつながるでしょう。この機会を逃したら、もう日本の再生、世界の再生はないと思います。そのような人類の歴史の岐路に、今、立っていることを考えれば「希望」が湧いてきます。そして、生き残っている「わたしたち」の生きる目的、使命はここにあるように思えます。このような想いも…被災してないから言えることなんでしょうね。…それでも、今は…涙…です。立ち直りたいですね。ほんとに…!
いつもの風景、いつもの自然、いつもの生活、
住みなれた普通の生活。
しかしそこには、僕たちの思いが込められている。変わらない日常に僕たちの優しさが溢れている。
その、日常が壊れたとき、目の前には絶望が立ちふさがろうとしている。
でも、きっと、前を向いたとき、空を見上げたとき、明日を考えたとき、新しい答えが見つかるはずだ。
自分自身が俯かず、周りにいるみんなを肌で感じて、まっすぐ前を見たとき、きっと、きっと自分のしなければならないこと、やらねばならないことが見えてくるはずです。
焦らず、あわてず、ゆっくりと、でも、確かに、確実に、明日を考えてください。
私は、ただ、ひたすら、あなたに、声援(エール)を送ります。
和歌山 中尾より
子供たちが、ある避難所で”ふるさと”を歌っていました。
その歌声の美しさに、心がふるえました。
”ふるさと”は、自分の原点。
良い時もそうでなかった時も、すべてを知っている地。
皆さんにとっての大切な地が、いつもの風景、いつもの生活に戻る日を思いながら、私の出来ることを一歩一歩すすめていきますね。
お体にお気をつけて。
ではまた、あした。 武居
わたしもみんなとサッカーしたいです!
運動神経は皆無ですが、やる気はあります!
今はそうゆう気持ちや軍資金をたくわえて、
絶対時がきたらいきます。
その日は絶対晴れて欲しいですね。
てるてる坊主、作りますね!
カンボジアの日本大使館に寄せられた寄付は、22日現在で15万7千ドル(1200万円以上)に達しました。大口の寄付だけじゃないです。バイクのお兄ちゃんが、1日の売上、5ドルを握りしめて窓口にやってくるんだそうです。日本人といっしょに悲しみたい、と言って。もちろんこれが東北国際クリニックに直接わたる寄付ではありませんが(赤十字にいきます)、現場のみなさんに、ぜひ伝えたくて書きました。
朝のテレビ番組の中で、中学生が「この土地の為になる事が出来る大人になりたい。」とコメントしているのを何度も耳にしました。自分の生まれ育った町が、日常が一瞬にして目の前から消え去り、絶望感で一杯になったはずなのに。人間って強いなぁと思います。 診療で大変だと思いますが、地球のステージで東北の様子も伝えて下さい。
初めまして。仙台から旭川へ逃避行したときに朝日パーキングを利用しました。時間ギリギリだったので飛行場に停めて後ろから追いかけてきて、移動してくれました。お土産渡したら喜んでくださったことを思い出します。この春休みに神戸へ行く時に利用するつもりでした。先生のブログにたどり着けて良かったです。
どうかご自愛ください。
あいの里のステージを手伝いに行った一人です。今週末におやじ二人がそちらに行きますので、少しでも協力できたらと思っています。
職業柄、被災地で高校生が避難所で頑張っていたり、おばあちゃんを助けて何日も生き延びていたりという記事を見ると本当にうれしく思います。札幌でも学校を越えて生徒会同士で連絡し合って支援へ動き出している高校生もいます。うちの高校でもボランティア局の生徒が募金をしていました。
人のためになりたい、何かしてあげたいと思って行動できる若者がいる限り、大変な中でも希望はあると思います。
つらい時には休んで、また頑張って下さい。おやじ達も応援しています。
菊池さんが、大丈夫だといいですね。
大口町公演の時、君の胸ポケットに私が挿したモンブランの赤ボールペンは私の20年来の愛用です。いつでも君と一緒にいるからね。書きやすいと思いますから、気に入れば使ってください。この夏の親父の法要の日まで君に預けておきます。もちろん無くしたって一向に構わない。
いつでも君と一緒にいるよ。
いつもの風景が悪夢のように一変してしまい、いつもいてくれた人がいないなんて。。。
消息不明というのは心にいつまでも残り続けるからしんどいですね。
早く菊池さんが見つかりますように。
私の周りでも地球のステージに何か支援でいることはない?と聞いてくださる方がいます。
募金はお願いしましたが、息の長い支援が必要だから慌てないでと伝えています。
こちらの友達、その友達を通じて募金が集まってきています。送金る場合に口座名、番号のほかにIBAN,BIGの番号を教えてください。
それから、先生のブログを協力てくれた人たちにも読んで、被災地を近くに感じてもらおうと、英語とドイツ語に翻訳してメールで配ろうと思っています。
それでは、また。お体にお気を付けください。
初めてコメントさせていただきます。
2年前地球のステージを東京で観て心がとても共鳴して、それ以来度々関東での公演に足を運んでいました。
私の地元は気仙沼、姉は仙台にいます。幸い家族みんな生きていました。私は春から仙台に就職予定で地震の2日後に東京から引っ越す予定でした。…東京で迎えた、大好きな土地を襲った大地震。
私も最近まで家族と連絡が取れず、情報もなかなか入ってこないため心がつぶれそうでした。家族の安否が確認できましたが、津波被害や交通機関のマヒで自分は仙台に戻れなくなりました。
一刻も早く地元に戻り、家族と会いたい、友達に会いたい…
東京に残る決心をするのにも時間がかかったのですが…東北の復旧にはたくさん時間がかかります。
関東で自分で自立して、能力的にも金銭的にも力がついて、交通機関も回復し機が来たときに、私の故郷に帰ってできることをしていこうと思いました。
春から東京の障がいのある子たちの施設で保育士をします。それと同時に東北から関東に避難してきた人たちのために、避難所を回って子どもたちに絵本の読み聞かせなどをしていこうと思っています。
桑山さん、関東関西でもたくさんの人が東北のために動いてくれています!もちろんこれが一過の支援ブームに終わらないように…私も声をあげていきます
最近毎日このブログを読んで、私も力をいただいています。桑山さん本当にありがとう。
いつか私の地元気仙沼でも地球のステージをやってほしい…!その日を願ってみんなで力を合わせていきましょう。
まだ寒い日が続くと思います。桑山さんも他スタッフさんも現地の方も、お体ご自愛ください…。
東京より、心からの愛をこめて
歩きましょう!前を向いて歩きましょう!上を向いてもいいね!歩め!桑山!
行方不明って残酷な響きですね。何なんだろう、日常と思っていたことが消える。人が消える。なんて…苦しい。
いったいどれだけの人がそんな思いをしているのでしょう?
それが家族だったら、友達だったら、大切な人だったら。
壊れずにいてほしい。生きてください。まだ、困難は続くかもしれなくても。一人ひとりにできることがきっとあるはず。
歩いて、動いて、話してみよう。一人じゃないよ?
毎日お疲れさまです。
菊地さん どうかごぶじでありますよう
お祈りしています!
ここ毎日、桑山先生のUpを読んでます。
心に響く言葉たちばかりです。
そして、広がった地球のステージの輪の声もまた、心に響きます。
毎日、文句ばかり言いながら仕事してるけれど、その仕事さえなくしてしまった人もたくさんいる。
大事な人と毎日当たり前に暮らせることを幸せに思います。
そんな日が早く被災された人たちにも訪れることを願ってやみません。。
がんばれ、東北!!!
がんばって、桑山先生!
菊地さんたちの機転と思いやりが、みんなの元へと向かう桑山さんたちをずっと支えられていたんですね。感謝。元気なお顔に会いたいです。
山しんさんのコメント『人類の歴史の岐路に、今、立っていることを考えれば「希望」が湧いてきます。そして、生き残っている「わたしたち」の生きる目的、使命はここにあるように思えます。』この言葉で、私の心にもポッと真の希望が灯り、使命感が芽吹きました。ありがとうございます。
アルピニストの野口健さんが陸前高田市に寝袋を届けられ、被災地に立ち、見て見ないふりをしないヘルパーの方の人生を知った。知ることは背負うこと。みんなで背負おうと言ってみえました。
みんなで背負い分かち合い、ともに泣き支え続け、世界中が真似たくなるようないい国にしちゃいましょう。
いま未来の 扉を開けるとき 信じてる