今日は朝から南魚沼の撮影に入りました。
北越急行ほくほく線は魚沼丘陵駅に8時36分に入ります。これを逃すと後は11時まで走ってきません。その一瞬の風景をドローンで一発取りするのはかなり緊張する作業ですが、思った以上にうまく飛ばせました。
その動画は→
ちょっと冗談を含めてNHKの大好きな番組「小さな旅」の主題歌に乗せてみるとなんとも完璧な作品になりました。
こうやって四季折々の「新潟」を撮影して「故郷篇~新潟版」の制作ができればと思います。それが来年の大きな大会につながるといいなあ、と思っています。
その後懐かしい、3年連続で公演した城内中学校に行き、八海山神社にお参りしてそのまま本庄早稲田駅まで走り、優子ちゃんはクルマでそのまま海老名に、僕は羽田に向かいました。
そして、明ちゃんと合流して一路福岡県朝倉市へ。
向かったのは「頓田の森」です。
終戦の年、昭和20年3月27日。その日は福岡県大刀洗町の大刀洗飛行場一帯への空襲の日でした。午前10時過ぎ、空額の危険を感じた立石国民学校(現在の立石小学校)の先生は生徒を救おうと、この頓田の森に連れてきました。ここならたくさんの樹が茂っており、子どもたちの身を守れると思ったからです。
しかし、爆弾はこの森を直撃。最終的に31人の子どもが亡くなりました。「頓田の森の悲劇」です。実は、この学校管理下で31人という子ども亡くなったという数字は、その後66年間塗り替えられることはありませんでした。それなのに、2011年3月11日、宮城県の大川小学校では74人の小学生が亡くなってしまいました。
大川小学校の悲劇は戦時下の学校管理下で亡くなった子どもの数をも上回る悲劇なのです。それぐらい大川小学校の悲劇はあってはならないことなのだと思います。
現在裁判中ですが、しっかりと見守っていく必要があると思います。
さて、その足で朝倉の被災地に入りました。
もう暗くなっていてはっきりとは確認できませんでしたが、1階が抜けてしまった家屋がまだまだたくさん残されています。
戦争、災害。人間はいくつの困難を乗り越えていかなければならないのでしょうか。
明日はいよいよ今年最後、福岡県の先生方とのステージです。
12月25日に設定されてもう12年。既に来年の打診も頂いているこのステージ。実は新しい編曲になったフィリピン篇「還ろう」のお披露目も控えています。
福岡の先生方!明日お目にかかりましょう!
桑山紀彦