ダンと想う未来

今朝ダン先生に会いに行きました。

来週月曜日のことを考えると、ひょっとして最後の外来かも知れません。1999年9月4日の騒乱に先んじてその年の6月には既に紛争を予測して、このディリに入っていたダン先生。実に18年間このバイロピテ病院で黙々と患者さんを診続けてきました。

1日平均250人を診たとして週6日間の外来で1500人。1年間ほぼ休みなく外来をやっているので50週として7万5千人を1年間で診てきました。それが18年間ですから135万人をたった一人で診てきたことになります。延べではあるけれど、東ティモールの国人口よりも多い人を診てきたのです。

もちろん治療の甲斐なく亡くなった人もいるけれど、一体どれくらいの人の命を救ってきたのか。もちろんバイロピテ病院のスタッフと共に働いてきたわけですから、ダン一人で出来たわけではないけれど、それでもこんな医者に出逢ったことはありません。

そしてこの18年間、自ら一切の報酬を受け取らず、ひたすら患者さんには無料診療を貫いてきたダン。2008年に東ティモールの国家表彰を受けていますが、それ以上に国際的な賞を受けるべきなのにもかかわらず、そういったものには一切興味も縁もなく、ひたすら患者さんと共にいました。

そのダンがついにその役割を終える日が来るかも知れません。

年齢、無料診療、病院の運営方針の違いを理由にオーストラリアの理事たちはこのダンの仕事を奪おうとしています。サステイナビリティ(持続性)においては確かに変革の時ではあるでしょう。

でも、このダン先生にインスパイアされ、指導を受け、どれほどの多くの医療従事者が育っていったでしょうか。我が東ティモール事務所の代表、アイダ医師もその一人。彼女はダンの紹介で5年間アメリカの大学医学部で学び帰国しました。今のアイダの医学知識、英語力も全てダンが取り計らった留学のおかげです。こうして多くの東ティモール人が育ってきました。

そんなダン先生の最後かも知れない外来。彼の願いや思いを「地球のステージ」で伝えるためにずっとカメラを回し続けました。

そしてダンと話しました。

「ダン、僕はこれまでいつも困難にぶち当たったとき、ダンのことを思い出して元気を出してきたんだ。ダン先生はいつも僕の勇気の源だった。」

「ケイ、ワシもお前も自ら困難な道を選んで生きている。だから困難が降りかかるのは当たり前だろう。でもそれを自ら選んだのだから仕方ない。これからも共に進み続けるしかない。」

涙があふれてきました。

「これからどうするつもり?」

「まだまだ闘うさ。まずは理事たちとな。そして自分がやれることはまだたくさんある。例えばケイたちがやっているパレスチナでも働く意志があるぞ!」

めげない人です。

ダンは僕が泣いているのを知ってか、そのあとは明ちゃんの方をみて、

「明子、お前はいつまでも若いな。どうしてそんなに変わらないんだ?」

「いえ、ダンだっていつまでも若いよ!」

 

ずっと続くと思っていたこと。

ダンがバイロピテで無償で働き、無償で人を診ていること。それは僕の、いや多くの人々の誇りでした。それにも終わりが来るのです。この世界は変わらないものはない、そんな哀しい世界なのでしょうか。

始まりがあれば終わりがある。それはわかっていました。でもこんな形でダンの診療が終わることを予測することはできませんでした。

2年前の3月14日、パレスチナの盟友ダルウィーッシュがこの世を去ったときのことは今もはっきりと覚えています。岐阜でのステージが終わり片付けが一段落した、岐阜駅前の16プラザの駐車場の入り口。那美子さんから「ダルウィーッシュが亡くなった」と電話口で聴いたとき、足がすくみ、地面に吸い込まれていくような感覚でした。心に大きな穴が空き、どうしていいかわからない、ひたすら哀しみにうちひしがれたあの「時」。

ダルウィーッシュとの大切な関係もこうして失われていったのです。

もちろんダンは生きています。元気です。だからこそ、そのダンが熱意と人生をかけたバイロピテ病院の外来を奪われていくことがとてつもなく哀しい。

「目の前に患者さんがいるのだから、ワシは常にそこにいる。」

それは、医者になってからただ一人の先輩医者も教えてくれなかった大切な「真実」でした。

「見て見ぬ振りはしない」

それを体現し続けてきたダン先生。どれほどの思いで外来を追われるのか。正義はどこにあるのか…。

 

出国までの間、アイダと話しました。

「ダンは、本気でどうするつもりだろう。」

「大丈夫だよ。めげない人だからね。」

「でも…。」

「シリアに行こうかなって言ってたよ。ケイのパレスチナもいいなって…。」

「そっか…。」

「ちゃんと自分で考えているよ。」

「アイダ、ダンが良ければうちの事業にきてもらえないだろうか。」

「うん、いいと思うよ。元々PSF(健康増進員)の育成とかは得意だからね。」

「じゃあ、本気で考えるよ。」

「私はいいよ。でも本人がどう思うかだね。患者さんを診察することに全てをかけてきた人だからね。」

「そうだね。うちは診察はやってないからね。」

「でも、喜ぶと思うよ。月曜日以降、何もかも失ったら私から話してみるね。」

「よろしくね。日本ではうちのステージでたくさんの人がダン先生のことを知っているんだ。」

「うん、わかってる。逐次状況を知らせるからね。」

 

津波、病院の乗っ取り、「閖上の記憶」の突然の助成金カット、ステージ公演数の減少、JICA駒ヶ根、二本松両訓練所の定期公演が必須から選択になってしまったこと…。この数年間でこれでもかこれでもかという困難が降りかかるように襲ってきている今の自分。

でも苦しいときはいつもダンのことを思い出して自分を奮い立たせてきました。ただ普通に医者だけやっていれば、こんなことにもぶち当たらないはずなのにと思いながら…。

でも今回ダンがこんな事態に陥りながらも、

「自分たちは自ら困難に立ち向かう道を選んでしまっているのだ。だったら困難が降りかかるのは当然だ。自分で選んだ道を信じて生きていけ。できることをやり続けるのだ。」

そう言われたことで自分はとても吹っ切れました。

「降りかかる困難は、実は自分が困難に立ち向かう道を選んでいるからきている。だったらそれは当たり前として立ち向かっていくしかない。」

天国のダルウィーッシュもうなづいているであろうその言葉を、忘れないで日々の活動につなげていきます。

もともとこういう回り道を選んだのだから、そんな自分に嘘をつかないで生きていくことが大切なのだと、ダンにまた教えてもらいました。

国際協力は、こういう困難、こういう出逢いに満ちているから大きな意義があるのだと思います。ダンにお世話になったと思っている我が同志のみんな!これからもダンを支えていきましょう。心で!

桑山紀彦

 

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