今日は朝一の飛行機で小松ー仙台と飛び、急ぎ丹野さんの待つ大川小学校へ向かいました。
佐藤敏郎先生、只野さん、佐藤和隆さん、紫藤さん、鈴木典行さん…。大川小学校のご遺族の中で踏ん張るお父さんたちが集まり、「大川伝承の会」を立ち上げ、今日はその初めての公式「語り」の初日です。丹野さんはそれを聞きつけ参加しているので、そこに合流しました。
5度という寒い中、たくさんのマスコミや訪問者が集まり、まずは敏郎先生の総括に耳を傾けました。続いて和隆さんと只野さんが裏山に逃げることがどれほど容易であったかを、実際にその道のりをたどって説明。続いて子どもたちが実際に逃げた三角地帯への方向へ歩きました。
無念の中で津波にのまれていった子どもたちの様子がありありと想像でき、とても苦しい時間でした。でもそれは「辛い」ものではなく、その子どもたちの無念を自分の心に刻み、「だから生き残った私たちが何をするべきなのか」を自覚させてくれる大切な瞬間でした。
大川小学校については仙台地裁の判決の際、
「学校、先生を断罪」と書かれた横断幕がでて、日本中を駆け巡りたくさんの人が違和感を感じたのではないでしょうか。誰もが、
「命を失う形で津波にのまれていった10人の先生方を断罪するの?」
という思いを持ち、大きな違和感を感じたと、公演の先々で言われました。
しかし、あれはあるご遺族の一念が表現されたものであって、決して大川小のご遺族は亡くなっていった先生たちを断罪しようなどとは思っていません。問題なのは、学校を運営するということの難しさと、それを指導する立場の教育委員会、市の行政官とのコミュニケーション、そして意識の解離という現象です。
長く大川小のご遺族と関わってきた僕たち「地球のステージ」は、これからも皆さんを応援していくし、「閖上の記憶」と「大川伝承の会」や敏郎先生の「小さないのちの意味を考える会」は共に手を携えながら歩いて行きます。
どうか皆さん、大川小学校のご遺族の皆さんを「固有名詞の存在」として応援していきましょう。来年の「津波7年目篇」には、そんなところもしっかり伝えていければと思っています。
そのあとは閖上に戻り、閖上朝市の理事長、櫻井さんと懇談。今後の「閖上の記憶」の方向性を発展させるべくいい話し合いができました。
これからも末永く続ける「地球のステージ」の震災支援もまた応援下さい。
桑山紀彦
不安の中で亡くなっていった子供たちは裁判と言う大人の争いを決して望んではいないでしょう・・。
子供の死を無駄にしない心のある解決の道を探って欲しいものです。