今日は地図をつくりました。
いつものようにイェイェさんの実家、30畳の大広間でイェイェさんのお父さん、ウ・ツーカさんと、村長さんの3人で話し合いながらつくりました。
この村には地図はありません。ドローン持ち込み厳禁のミャンマーでは残念ながら得意のドローンは飛ばせない。空から村を写せば一発で地図がつくれるのに残念です。でも逆にそんなハイテクに頼らず、村長さんたちと鉛筆と紙で地図をつくっていく作業もまた楽しいものでした。
東西に長く南北に短いミャッセ・ミャー村。村の真ん中に十字路がありますが、そこは三角形になっており、ちょっと複雑な形をしています。そこには「村の樹」があり、その周りに図書館、駄菓子屋、変電所、小学校があるのみ。あとは東に進んでその突き当たりにこの村で最大の僧院があります。そこが人々のいつも集まるところ。4月の中旬、水かけ祭りの時にはここで大きな行事があります。
村の中心からは少し離れているけれど、僧院は村全体を見守っています。
そしてその十字の道を囲むようにはたけと田んぼが拡がり、198の家が散在します。人口980人。明ちゃんの上山市、細谷の集落のようで明ちゃんもしきりに、懐かしい懐かしいと連発していました。
こうしてみるととても小さな、何もない(失礼)な村です。でもそこに人が住み、家族を築いて農業を営み暮らしている。
「何もないけれどたくさんある」
それがミャッセ・ミャー村だと思いました。
日本語とビルマ語が入り交じるこの共同制作地図、なかなかイケているように思いません?
村長さんのご自宅でお昼ご飯を頂いていたら、村長さんの奥さんのお母さん、ムーさんがいらっしゃいました。
「よく来たね。日本人がこの村に来たのは初めてだよ。」
歓迎してくださいました。お歳は76歳。
「でもね、実は正直に言うとこの村に来た日本人は初めてではないんだよ。今から70年以上前。ここにね、日本軍が駐留していたんだ。」
一瞬言葉を失いました。
まさか、この平和なミャッセ・ミャー村にも…。
「いや、何も心配は要らない。彼らは悪行を働いたわけではない。ここへ来て兵舎を作り駐留していたけじゃ。ワシの母や父からも嫌なことをされたという話は聞いておらん。
ただな、今でも畑を耕すと当時の兵舎の土台が出てきたりするんじゃ。」
すかさず通訳のタンナインさんが言います。
「戦争の時にやってきた日本人と、今来てくれている日本人は全く別です。私たちは昔の日本軍のことを今の日本人にダブらせたりはしません。」
ミャンマーの人は、いろんな記憶を持ちながらも日本との新しい関係を歓迎してくれています。
改めて、これからどう関わっていくのか、身の引き締まる思いでした。
桑山紀彦
これからの絆作りがはじまりましたね。