31年前の今日、日航123便は御巣鷹山の尾根に墜落し、520名の方が亡くなりました。僕はまだ大学生でしたが、あの夕方のことは忘れません。520人もの方の魂が天に昇っていったあの夜、胸がワサワサして眠れませんでした。
そして今日、8.12連絡会の事務局長美谷島さんのお誘いで、閖中遺族会から丹野さん、大川さん、佐々木さん。「閖上の記憶」から館長の小齋さん、「地球のステージ」から明ちゃん、優子ちゃん、つかささん、赤木さん、翔也君、総勢11名がこの大切な日に慰霊登山をさせていただけました。
前夜8月11日には灯籠流しがあり、シャボン玉を飛ばしました。美谷島さんは「大切な存在を失った気持ちは同じ」と、閖中遺族会の皆さんをちゃんと紹介して下さいました。
そして涼しい上野村(うえのむら)、御巣鷹の尾根にみんなで登りました。
広大な山の尾根、そして谷に散らばった墓標。それは、そこで絶命されたお一人お一人の場所に建てられています。一人一人にお名前があり、人生がありました。この2月に「閖上の記憶」に来て下さった小沢さん母息子さんとも我がメンバーは仲が良く、初めて29歳で亡くなられたご主人の墓標の前で手を合わせることができました。
そこには、同じ思いを共有したもの同士の静かな心の交流がありました。
事務局長の美谷島さんがおっしゃいました。
「向き合うことで、みんな前に進むことができるようになった」
と。そして小沢さんに聞きました。
「丹野さんは最近、”乗り越えることはできないけれど、受け入れることはできるようになった”といっていますが、そんな気持ちがありますか?」
小沢さんはおっしゃいました。
「そうですね。私は”同化”と呼んでいます。事故後私はずっと夫を失ったことを”異常な出来事”として自分の人生の”外”に置いてきました。でもある時から、”これも私の人生の中の出来事の一つなんだ”と思えるようになりました。つまりこの出来事が自分の人生の”内(なか)”に位置づけられていったのです。それを私は”同化”と呼んでいます。」
「そこまで来るのに、どのくらいかかりました?」
「そうですね、20年くらいでしょうか。」
美谷島さんは、私たちの「閖上の記憶」の活動をとても評価して下さっていて、
「この年月でここまで(向き合って)来られたのは奇跡に近い」
と言ってくださいます。みんな必死に、
「亡くなった子どもの存在を絶対に無にしたくない」
という想いでここまで来たのです。
美谷島さんたちはこの事故を「空の安全のために」活かしていこうとしてきました。多くの時間を使い、勉強会やシンポジウムを行い、天に昇ったいのちを「空の安全」という大きな社会的意義につなげてきました。それを精神科医の野田正彰は「遺志の社会化」と呼びましたが、私たちはそれを「社会との再結合」と呼んでいます。
私たちは、なくなった大切な人の存在を、
「いのちを大切にしよう」
ということにつなげてきました。それが評価されて「閖上の記憶」はもうじき入館者数が7万人を超えようとしています。
こうして「社会化」という動きを内包しながら御巣鷹のご遺族と津波のご遺族がつながっていきます。
人の生き様のすごさを感じるに十分な1日でした。全く疲れなど感じることのない、慰霊登山でした。
皆様も是非機会を見つけて御巣鷹山へ。
桑山紀彦
東京新聞に「御巣鷹山慰霊登山に閖上中学校の遺族と御嶽山噴火災害の遺族らも参加」と出てました。見出しは「あの日を伝える」です。記録してゆくだけでなく口から耳心へ絶えず伝えていかねばならないことを皆さんにより教えていただきました。そのためにも1回でも多くステージが組めるように頑張ります。閖上の慰霊碑に大相撲の白鵬関と日馬富士関が献花と土俵入りを披露して早期の復興を祈願したそうです。皆忘れない‼
家族が突然亡くなってしまったお身内の辛さを思うと、軽軽な言葉を発するのが憚られます。
受け入れる心の強さに敬服するのみです。
「遺志の社会化」,「社会との再結合」・・・
このように社会全体で意識化することは、とても
意義があると思います。本当にお疲れ様でした。
報告ありがとうございました。