71年目の長崎原爆投下の日

8月9日、71回目になる長崎原爆投下の「慰霊祭」に初めて出席しました。

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 いつもは大空に向かって伸びる平和の像の空間には大きなテントが張られ、たくさんの被爆者の皆さん、ご遺族の皆さんでいっぱいでした。

 こうして「その日」に「現場」にくることは、71年前のこの日に起きたことに直感的な思いを馳せることができて、とても貴重だと思いました。だから毎年3月11日にはいろんな予定もあるかとは思いますが、全国の皆さんが閖上に集ってほしいと思いました。

 

 安倍首相をはじめ、名だたる党首が臨席するこの式典は「政治」という色合いをどこか隠しきれず、きな臭いものも感じたのは事実ですが、それでも多くの被爆者やご遺族がこの日に大切な人のことを思うことに気高き魂を感じ、荘厳な空気が流れていました。

 午前11時2分。鐘の音と共に黙祷が捧げられました。

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 実は今年の11月7日(月)、千葉県佐倉で「平和首長会議」が開かれますが、そこに「地球のステージ」の公演を依頼されているので、「ヒロシマ篇」に長崎の原爆のことを伝えるべく、今回取材に入りました。

 

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 古森さんは現在71歳。被爆時1歳の赤ちゃんだった人ですが、現在も立派に「語り部案内人」を続けていらっしゃいます。爆心地のすぐ近くで生まれ育ち、まさに原爆投下と共に歴史を生きてきた人です。そんな古森さんは今、多くの子どもたちの案内を引き受けています。

 今日も炎天下の中、2時間のフルコースで案内する健脚の古森さん。途中で僕の方が暑さに根を上げて長崎大学医学部までたどり着いてあとは帰路につかせてもらったくらいです。

 こうして現地の人と現場をゆっくりと歩きながら進むことにはとても意義があると思います。特に広島と違って長崎は街の中に原爆の遺構が少ないことが特徴です。でも、そこに遺構がなくても、

「あの日、ここはこうであった。」

 と語ってもらうだけで十分当時への思いを馳せるには十分でした。

 

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 続いて北公民館の一室を借りて出張語り部、深堀さんのお話を聞きました。

 深堀さんは被爆時13歳。とてもはっきりとあの日のことを覚えていらっしゃって、実体験として語られます。13歳と言えば十分にものを知り、記憶し、感じることができる年代です。事細かに当時のことを語って下さいました。でも、深堀さんが言います。

「こんなにいろんなことを覚えているのに、なぜか僕は下の川に累々と横たわっていたたくさんのご遺体のことが思い出せないんです。たくさんの人が、”あの光景は忘れられない”と言っているのに、私にはその記憶がないのです。弟を探すために何度も何度も下の川のほとりを行き来していたはずなのですが…。

 きっと、余りにショックで記憶にフタをしてしまったんでしょうね。」

 いまでは、この「記憶の抜け落ち現象」はしっかりと検証され、強い心的外傷を受けた場合にはそういった現象が起きることは明らかになっているのですが、70年も前では心的外傷もPTSD(心的外傷後ストレス障がい)も言葉として存在していなかったと思います。そんな時代をよく生き抜いてこられたと思いました。

 

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 こうして、長崎の取材は終わっていきました。昨日の南阿蘇村の余りに暑く扇風機もないステージのダメージと、今日の古森さんの屋外フル2時間炎天下歩きですっかり身体的に参ってしまっていた桑山でしたが、夕方に稲佐山に登り長崎を一望すると心に元気が蘇ってきました。

 71年も前のことだけれど、たくさんの「関係者」がそれを忘れまいと努力しています。そして「平和」や「いのち」について語るために、「あの日のこと」に背を向けず向き合おうとしてきています。

 先人たちの知恵にまた学び、一層「津波のこと、いのちのこと」を伝えることの大切さを知りました。今津波の被災地で語り部を続ける丹野さん、大川ゆかりさん、小齋さんの姿が長崎人にダブりました。

 8月12日は御巣鷹山慰霊登山です。また一つ大切な人々とのつながりができる日になるでしょう。人はこうして「乗り越えることはできなくても、受け入れることはできる」という現実を抱えながら、それでも日々を生きていかれます。

 

桑山紀彦

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