朝の福岡空港、天草エアラインが大幅に遅れ、残念ながら天草に移住した後藤エミ子おばあちゃんの元には行けず、そのまま熊本へ。
この予定変更を逆手に取り、くわみず病院の松本先生の元へ。
松本先生は4月20日の初動時、僕たちを心のケアチームとして受け入れてくださった医療班のリーダーでした。松本先生の采配で僕たちは本当に活動しやすかったのです。松本先生曰く、
「南阿蘇は完全に医療過疎になってしまいました。立野病院の廃院により、村内に入院設備を持つ施設がなくなってしまったのです。このままでは人はみなその大切な最期を迎えるときに、必ず村の外へ出て行かなければならなくなります。そんな哀しいことがあっていいわけがありません。」
松本先生もまた熊本市で働きながらも、南阿蘇村に自宅を持つ住民でいらっしゃいます。医療支援の大切さを感じました。
そして南阿蘇村へ。
浄林寺へ入りました。あの「ニュース23」の中で登場した琉音さんの実家です。もちろん今では学校が始まり琉音さんはいませんでしたが、ご両親とおばあちゃんが出迎えてくださいました。ご住職でもあるお父さんが言いました。
「起きてしまったことは仕方がない。今はただできることを日々やりながら進んでいくだけ。壊れた屋根はほとんど自分で直しました。おかげさまですっかり寺の坊主っていうよりも瓦職人になりましたよ!」
あくまで前向きなお父さん。本当に起きたことを少しでも家族のために活かそうとされていました。
そして中松小学校へ。たくさんの先生方、保護者の皆さんが心のケアセミナーを聴きに来て下さっていました。これで村内5校ある小学校の中で4校で「心のケアセミナー」ができました。一様にお伝えしてきたのは、
「向き合えば前に進める。忘れるのを待てば、落ち込みに支配される。」
というメッセージ。そして、
「向き合えば子どもたちの力が伸び、自信につながる。」
ということ。でもその一方で向き合うための時間には、子どもによってばらつきがあるので、子どもたちのペースに合わせて向き合うための時間を考えていきましょう、ということもお伝えしました。
そして村内唯一の中学校、南阿蘇中学校へ。こちらは学校の先生だけの講座となりました。校長先生も内容をよく理解してくださり、7月1日の「地球のステージ」公演につながりそうです。
そこへ現れてくださったのが渡邊先生。
あの倒壊した立野病院の医師でもあり、かつ巡回診療でもいつも協力し合った先生です。ご自身も南阿蘇村に住み、お子さんは中松小とこの南阿蘇中学校に通っていらっしゃいます。
「よく帰ってきてくださいました。「地球のステージ」の心のケアチームはいつも心のより所でした。みんな本当に救われていました。
今後はどうやってこの南阿蘇村の医療過疎を解消していくか、です。冬になれば現在の唯一の生命線であるグリーンロードがたびたび雪で落ちます。するとまた孤立する危険性があるのです。そんな時に救急のケースが起きたらどうなるのか…。
今のところ”みなみあそ診療所”構想は足踏み状態です。医師の確保なども課題です。でも、この機会にしっかりと南阿蘇村の医療事情の改善を国や県に訴えていくつもりです。」
確かに入院設備を持つ医療施設を作るには行政レベルの支援が不可欠です。高齢化はしているけれど、一方で兄弟姉妹の数は”4人は当たり前”という子だくさんの南阿蘇においては、子どもたちへの医療もまた重要です。
”行政レベルの関わりが必要”と言われている現状において、「地球のステージ」がどこまで関われるかは未知数ですが、今後も支援を継続していきたいと思っています。
そして杏太朗君が来てくれました。
お母さんの恵子さんは風邪で熱が出てしまい、代わりにお父さんが来て下さいました。元気な様子です。
杏太朗君に読売新聞の仙台支社から来た田辺さんが聞きました。
Q:桑山さんに地震の話をしてどうだった?
A:それまで誰にも詳しく地震のことを話したことがなかったんだ。だから桑山さんと話したのが初めてだった。でもね、それですっきりしたんだ。
Q:今は地震の話できる?
A:もちろんできるよ。その一方で友だちとは話さないようにしてるんだ。
Q:どうして?
A:みんな心配してなんだけど思うけど、僕のうちを見に来ると、「大変だ~、やばいよ~」となって次の人に話されてしまうんだ。すると次の人がやってくるからそれが嫌なんだよ~。
う~ン、そんなストレスもあるのだと思いました。
Q:家の中ではどんな話しをするの?
A:お父さんお母さんとはちゃんと地震の話をしているよ。
さすが、の杏太朗君でした。
そんな杏太朗君のお父さんが言いました。
「今回のことは、いい経験になったんだって、杏太朗とも話してるんです。こんな経験滅多にできるもんじゃない、って。体育館であんなに長いこと寝泊まりすることも、きっとこれからないことだって。
起きてしまったことは仕方ないと思うんです。だったらそこから何を得ることができるか、を考えたい。
もう既に被災証明の内容を巡って住民の間でいざこざが起き始めている。誰がどうしたこうしたって…。誰かのせいにすることでお互いが牽制し合ったりしてるんです。
オレはそんなことはしない。自分たちでできることを背いっぱいやれば、何も文句なんて出ないはずです。だから杏太朗とも話すんです。
この経験を活かそうな、って。これからもオレたちはみんなでできることに取り組んでいます。」
琉音さんのお父さんも杏太朗君のお父さんもしっかりと向き合おうとしていました。南阿蘇村は人口は少ない過疎の村かもしれないけれど心はとても強く、豊かな村だと思います。何より向き合うことを既に始めようとしている若い世代がたくさんいる。
こちらが学ぶこともたくさんある、そんな学び合いの時間が今日も流れていきました。
桑山紀彦
大きな震災で打ちのめされたのに、めげずに立ち上がる気力の人が居るんですね。
感動します。
お父さん頑張って!
大変なことがあっても、それでも前に進もうとするなんて!!!
カッコいいなぁって思います!
しんどいことも多いと思いますが、頑張ってほしいです!