クロアチアの首都ザグレブに万寿美さんという女性がいます。
御年75歳、現在のお名前は万寿美スティグリッチ。そう、クロアチア人のご主人と実に45年もこの地に暮らすタフな日本人女性です。
万寿美さんと会ったのは2006年に映画「ありがとうの物語」を制作した際の通訳者としてお会いしたのが始まりでした。それ以来、アリッサの元を訪れる時はいつも万寿美さんが一緒でした。
実は万寿美さん、あのユーゴスラビア連邦時代にその国内に住んでいた唯一に近い日本人です。以来45年間ずっとこのユーゴスラビア連邦に暮らし、内戦となって分離独立を果たしたのちもクロアチアに住み続けました。京都の出身で、当時としては非常に目立つ身長165センチ。実に8頭身の美人としてこのクロアチアに知られる日本人となっていきました。
万寿美さんがすごいのは、その45年の歴史をきちんと記録し、留めていらっしゃることでしょう。今回ご自宅で夕食をごちそうになりながら見せていただいたものは、考えられないほど貴重なこの半世紀の歴史の記録でした。
特に驚いたのは、1960年代にご主人のフラーノ・スティグリッチさんがガザに滞在していた時の国連新聞です。当時はUNEF(United Nations Emergency Force)という名称でガザ地区の治安維持に努めていたフラーノさん。実はユーゴスラビア連邦の中でも射撃の名手で、なんとサラエボオリンピックではユーゴスラビア代表としてオリンピックに出たという豪傑です。
そのフラーノさんが持ち帰った国連新聞には1960年代のガザ地区の様子が実に詳細に書かれていました。何よりも当時のパレスチナ人の様子が非常に優しく描かれていることが嬉しかったです。ここにはちゃんとパレスチナの文化がある、と。そしてイスラエルとの間になんとか均衡が保てないかと四苦八苦している様子も綴られていました。
この実に45年前の国連新聞が「そのまま」残されている事実。万寿美さんの人生はまさにバルカン半島からガザ地区におよぶ、紛争の火種と呼ばれる地域の日々を共に生きてきました。
そんな万寿美さん。今もクロアチアの首都ザグレブに暮らしながら世界のことに関心を持ち続けています。むかしマラゴリッツアの難民キャンプにいたのはアリッサたち、故郷を追われて逃げてきたクロアチア人だったけれど、その後マラゴリッツアはコソボ難民の皆さんの受け入れを行ってきました。そして今年の春くらいにはシリア難民の皆さんを受けれる場所になりそうです。でもシリア難民が最終的に目指すのはドイツ。そこへの足がかりとしてまずはクロアチアにたどり着き、そこから第三国定住を目指していくとのこと。
万寿美さんは世界の難民の動きをずっと見てきました。
でも万寿美さんが一番心配しているのは、日本です。
「最近のニュースを見ているとびっくりする。十代の子どもが平気で人を殺している。そして自殺。一体日本はどうなってしまったの?って切実に思う。私は世界のいろんな紛争を見てきたけれど、今の日本の子どもたちの様子が一番危険だと思う。このままでは日本は本当に危ないって、外の国に暮らしても強く感じるのよ。」
万寿美さんの本音です。
そんな万寿美さんは本を出版するための原稿を書きました。
そこにはこのバルカン半島に暮らしてきた一人の日本人女性の半生と共に、紛争や異文化と暮らしてきた喜怒哀楽が描かれているようです。現在もと富山大学の学長氏のもとにその原稿があり、近いうちに出版される方向のようです。
万寿美さんが見た世界を知る、とてもいい本になるでしょう。
最後に万寿美さんは1960年代の国連軍のベレー帽をかぶって写真に収まって下さいました。
「平和はみんなで創り上げるものなのよ。」
さらりと言う万寿美さんに世界の真実を見た思いでした。
桑山紀彦
万寿美さんの思いに同感です。
子供の情操教育どこへ行った?という感じで不安です。
大人の社会がばらまいたゲーム機やスマホが良い例です。
快楽を与えておいてから、子供には毒だからと規制を言い出す。
経済活動に目を瞑って、どのような影響が出るかは誰も考えない。
薬の認可には途方もなく時間をかける癖に、スマホはノーチェック。
国作りをどう考えるか社会全体が考えるべき時はとっくに来ています。