今日は宮城県ユニセフ協会のステージでした。
「ルワンダ篇」
内容は「地球のステージ6」、ルワンダやブータンという国が出てきます。
宮城県ユニセフ協会の事務局長の五十嵐栄子さんはうちの理事でもあり、長いお付き合いです。
実は今日のステージはルワンダ人のマリールイーズさんとの対談が後半に設定されていました。
マリールイーズさんは、20年前のルワンダの大虐殺を生き延びて日本に暮らす、タフなルワンダ人女性です。以前から親交はありましたが、久しぶりに一緒のステージに立ちました。
マリールイズさん
22年ほど前にJICAの青年海外協力隊のカウンターパートとなり、首都キガリで洋裁の専門学校の先生をしていたマリールイーズさんですが、その縁でJICAの研修生となり、福島市の洋裁学校に研修でやってきました。それが終わってルワンダに帰国したのが94年の2月。それから2ヶ月後に大虐殺が起きると、誰が予測していたでしょうか。
「その日」は水曜日だったと、彼女は語り始めました。街から物音と人の声が消え、人々は死の恐怖におののき、「戦争の街は音が消える」と教えてくれました。まさに2009年のガザ空爆の時も、大好きなラファの街からは音が消えていました。人は息を潜めて、自分の身に不幸が降りかからないことをひたすら祈り続けるのです。
しかし1週間してこれはもうこの国を脱出するしかないと考え、距離にしたらたった200キロの道のりを実に3ヶ月間かけて少しずつ少しずつ、歩いては止まり、また潜んでは歩き始めて2歳、4歳、6歳の子どもを抱えて逃げ延びていきました。そして国境に至る直前で、お互い死を覚悟していた夫と出会い、
「神様はいるのです。」
と語りました。そしてコンゴ民主共和国のゴマ難民キャンプに暮らし、そこでAMDA(アジア医師連絡協議会)の一団と出会い、日本へいざなわれていくのでした。その日本への脱出の時、4人目のお子さんを妊娠していらっしゃって、日本にたどり着いて生まれた彼女を「さくら」と名付けました。日本に長く関わる覚悟だったのだと思います。そのさくらさんも今年20歳。マリールイーズさんは達者な日本語で冗談も交えながら、この生と死の物語を語りました。
途中、僕の質問、
「マリールイーズさん、今ここで辛かった日のことを語ってくださいましたが、それを語っている時、心はどんな感じですか?辛さが蘇ってきますか?それとももう大丈夫ですか?」
マリールイーズさんは語りました。
「辛くないわけがありません。今でも語れば辛さが蘇ってきます。でも、語らなければ、また同じことを繰り返そうとする人が出てくる。それではだめです。だからどんなに辛くても”戦争はだめ!”と、経験した私が言っていかなければならない。そう思って語っています。」
偉大な人物が福島に住んでいます。
以前にも増して語りが素晴らしく、心のこもった口調の彼女の「発展」を見て、またしてもブータンのワンチュク国王が被災地フクシマで語った言葉を思い出しました。
「人は経験を食べて成長し、強くなっていくのです。」
苦労を乗り越ていく人に、栄光あれ!
桑山紀彦
日本ではありえない大虐殺という言葉。
今でもどこかで起こっている事実。
普通のありがたさを忘れてはいけないと心に命じました。