1時間先が判らない人生

ついに、昨日エジプトに入ってみました。
 ラファでずっと僕たちの活動を支援してきてくれているダルウイーッシュ氏と市場に行ったら、どんどんエジプト方面へ歩いていき、にこにこしながら「エジプトに行こう!」と彼が言うので、あきちゃん、由美ちゃん、そして僕の3人の日本人はビザもなく、パスポートの提示もなく、エジプトの町ラファに入りました。
エジプトのマーケット
エジプトの町、ラファ
 人々は急ぐ買い物で早足ですが、どこか表情に活気があります。長い経済封鎖の末に空いた風穴に、ホッとしているんでしょう。
 ほんの5分足らずのエジプト滞在でしたが、ダルウイーッシュは戻る車中で言いました。
 「でもいつ閉まるかわからないんだよ。人々はいろんなうわさに振り回される。誰も何一つ確かなことが言えない。そう、僕たちは1時間先に何が起きるか判らない町に暮らしているんだ。
 日本では、いろんな予定が立てられるよな。でもそれは本当にありがたいことであって、僕たちの暮らしは、その立てた大切な予定が一瞬で無になってしまう経験をいくつもしてきた。
 けれど、それで悲観してしまっては負けになる。
 だから、1時間先が判らなくても、それでも信じて自分がしたいことを念じつづけるんだよ。自分は絶対に公式的に3月までに娘をエジプトに骨休めのために連れていく!と念じている。
 だから、ヒゲも剃らないんだよ~!」
 最前線で生きている人が、ここにいる。
 決してあきらめない。念ずれば、いつか必ず叶う日が来る。
 ラファの人々はあきらめて暮らしているのではなく、地下水脈のように強く長く念じて生きている人々だった。
 ダルウイーッシュ、万歳
ダルウイーッシュ
ダルウイーッシュ、何歳に見えます?

1時間先が判らない人生」への21件のフィードバック

  1. 昨日、2月3日、再びラファ市に空いた壁の穴は閉鎖されました。
    また、彼らは封鎖された生活に戻ってしまいました。どれほどの落胆が彼らを襲ったか、想像するだけでも涙が出てきます。
    今は、エジプトが元々空けていたラファ・クロッシングの国境検問所を正式に空けて、正規に人々が通過できるような話し合いを持ってくれることを望むばかりです。
    どんなに落胆することが続いても、それによって希望を失うのではなく、地下水脈のように願いの火を持ち続けている、強い強い人たちなのだから、と思いうことで自分を納得させようとしています。
    今日からヨルダンです。初の国境陸路越えでアンマンに入り、明日よりヨルダンに避難してきたイラク人難民のケアに携わります。
    これは、京都の盟友NGO、NICCO(日本国際民間協力会)とUNHCRの共同事業に、スーパーバイザーとして参加するものです。
    でも、後ろ髪引かれる思いです。
    くわやま

  2. はーい、地球のステージの支援者の皆さん、主は、居らんでも、やれやれいそがしやのたのんまっせ。全国制覇、2月23日に向け心一つで、きっと頑張って準備してくれちょるでの。頭にねじり鉢巻してがんばんてくりよ。

  3. エジプト境界線再封鎖のことは、我が県の地方紙にも掲載されました。どこへでも自由に行き来することのできる日本で暮らしていると、彼らの落胆の大きさは計り知れません。あきらめずに、しっかりとした信念を持って強く生きてほしいと思います。
    ダルウィッシュさん、見かけよりは20歳くらい若いんですよね。おひげが年上に見せているのでしょうか。たしかDr.Kよりちょっと年下だったような・・・?
    2週間で3ヶ国を巡るわけですから、後ろ髪を引かれる思いを振り切らなくてはいけませんね。どうぞ無理をされませんように!

  4. 初歩的な質問で恐縮ですが・・・
    ガザの人たちは壁が壊されたときにエジプトに買い物に行ってガザに戻ってきていると聞いていますが、また閉鎖されたら不便な生活を強いられ、また爆撃が続くかもしれないと解っているのになぜ戻ってきたのでしょう?そのままどこかへ逃げることをしないのは何故?と、もうひとつ、爆撃されつづけているガザの人たちの収入の糧はなんなのでしょう?狭いガザで農産物を作っているとも思えないし、工業が成り立つとも思えないし・・・商業のみ?ご存知の方教えてください。

  5. 北海道・当別のよしみねです。
    当地の新聞でもガザの壁の穴封鎖は報道されました。
    今、ちょうど教えている高校の授業でイスラム史を
    扱っているので、このブログを紹介して、「地球の今」
    に目を向けてもらおうと思っています。
    どうぞ、気をつけて。

  6. なかちゃんママの質問のひとつ、収入の糧は?ですが、以前、akiちゃんの、仙台での講演「私の見たパレスチナ」で、私も疑問に思い、質問したことがあります。
    細かい数字は忘れましたが、(なんとも私らしい)かなり高い失業率で、公務員でさえ、給料が滞るようです。でも、余裕のある親戚が、面倒を見ているようです。親戚も、家族も、仲が良いということなのでしょうね。きっと、これを見て、桑山さんか、akiちゃんが、正しいコメント入れてくれるでしょう。
    akiちゃんと、由美ちゃんの報告会、違う視点で、考えさせられます。よかったら、DVD見ますか?

  7. アンマンに入りました。
     明日より、ザルカという町に住むイラク人難民の子どもたちとワークショップやったり、専門家対象のセミナーの講師をします。
     さて、なかちゃんママのご質問の答えになるかわかりませんが、まず「どうして戻ってくるのか」は、逃げていっても、そこで生活できるわけではないからではないでしょうか。やはり生活の基盤はラファの町にあります。そこを捨てて身も知らぬ町に暮らせば「難民」になってしまうけど、ラファに暮らせば「住民」です。
     そしてラファの町は不思議なエネルギーが渦巻いていて、人々は何とか食べているんです。それはキャサリンさんが言うように余裕のある親戚が面倒見ていたりしますし、なんだかんだでいろんな作物を作って自給自足の生活をしていたりするんですね。
     海外の親戚からの送金もちゃんとラファの町の銀行には届いています。
     だから「地球のステージ3」でも語っていますが、やはり「何とか食べられている」し、そして何より家族や仲間と暮らしている自分の町だから、離れず暮らしているんだと思います。
     うまくバシッとした答えにはなっていませんが、こんなひどい状況だからこそ、人々の絆は強まり、人々の工夫して生き抜いていく力は倍増しているように、僕には見えます。
     人間、困難や苦労がなくなると、やはり生ぬるくなって、生きる力や方向性を逆に失ってしまうものなのかもしれませんね。
    アンマンにて

  8. ドクトルK,キャサリンさんありがとうございます。
    みんなで力を合わせて生きているから辛いとか、抜け出したいとは思わないってことでしょうか?
    平和な暮らし、幸せな暮らしに要らないはずの困難や苦労が無いと生きる力や方向性を失ってしまう。ホントそうですね。皮肉ですね。
    現地の状況を体感しているドクトルKの言う不思議なエネルギー・・・気になるところです。
    キャサリンさんDVDお願いします。2月14日映画の試写会、2月20日南中のステージどちらかにお願い。

  9. 教えて!ドクトルK パートⅡ(何度もすみません。)
    寺畑さんに聞くのが一番と思いますが、寺畑さんが活動している場所が何故ガザなのでしょうか?寺畑さんの希望ですか?(ダン先生のように住んでいる人たちに曳かれて?)それとも世界中で一番必要な場所だと考えたからですか?

  10. 2003年に、彼女と初めてパレスチナ自治州のヨルダン川西岸、ジェニンの町に入りました。
     イスラエル軍の侵攻から2年が過ぎていても、ひどい破壊の有り様でしたが、
    「もっとひどいところがあるんだ」
     と連れていかれたのが、ガザ地区のラファの町でした。
     ガザ市よりももっとひどい破壊と攻撃にさらされている町ラファ。
     その雰囲気に、ためらうことなく「地球のステージ」として支援することに決めたのが、2003年の5月のことです。
     ひとえに、世界でもっともひどい環境の中に暮らしている町の人たちだから、ということでラファの町に決めたという経緯です。
     以来、日本の団体として唯一、そして日本人として唯一、ガザ地区の拠点を持ち、人を送ってきたのが「地球のステージ」だったわけです。
     もちろんアフリカや、イラク国内も大変だと思います。
     そして震災直後の地域もまた大変です。
     でも、少なくともそういった「考えられないような状況下にある」ということでは、支援の必要性の高い地域だと、現在も思っています。

  11. 2月の誕生日さん、キャサリンさん、今日は。
    私、青春してます。燃えてます。
    「生きている」から「活きている」に変ってます。
    心躍ってます。
    こんな自分に出会えて嬉しいです。

  12. 2月23日が駆け足で来よるぞ~。
    準備はいいか~。
    主もそこまでもんちょるぞ~。
    来る人には楽しみを、帰る人には喜びを!

  13. ドクトルK ありがとうございました。
    支援の必要性の高い地域なのに休止を考えなくてはならない・・・と考えると「教えて!ドクトルK」は、パートⅢ以降続きそうなのでお帰りを待つことにします。では健康・安全で、お願いしますね。

  14. うわ~!!港屋のおばちゃん、ブログの書き込み、嬉しいです。毎日が楽しくてたまらない・・・今のおばちゃん。前向きで、素敵ですよ!
    昨日の夜は、ジェームスと、おばちゃんの話題で、おいしくお茶を頂きました。ありがとうございました。

  15. 私事ですが、明日はフィリピンへ行ったことの報告会だよ~  写真は出来ているけど、「語り」が・・・?
    「地球のステージ」の海外での原点がフィリピンだったことと、パヤタスやロハス大通りを自分の目で見てみたいという思いからでかけたのでした。
    見てきたことや自分の素直な気持ちを伝えることができればいいかなぁと思っています。
    人は愛してくれる人がいれば、あるいは寄り添ってくれる人がいれば、がんばれるのです。少しの支援で、持てなかった夢も持てるんです。子どもたちの笑顔は忘れられません。とってもキラキラ輝いていました。
    映画「ありがとうの物語」のメリージェーンと二重写しになる感じです。
    まだ、試写会の段階ですが次々に「推薦」の団体が増えてきますね。来週は東京での試写会です。お近くの皆さんはぜひ見てください。

  16. 今日は8日バイ、
    ドクトルK、akiちゃん、帰って来るとね、待っちょるバィ。
    長かったバィ、待ちきれんとょ。帰って来ると休む間もナカトネ。ドクトルKは、はらにはちまきしとるとね?
    うちゃ、いつもそげん思うちょるとよ。
    akIちゃんは、港屋のおばちゃんにふくろう送ったとバイ。
    よかんうれしかバイ。これからも、ドクトルK、akIちゃん二人のフアンじゃけんわすれんじよってね。風邪ばひかれんバイ。

  17. イーサン、何時も書き込み嬉しく読ませて頂いています。
    愛媛へ来て下さった男性、そう多くはないのですが、名前を知らない方が夢ありますね。1月30日の書き込みに,このつながりは、永遠に続いて行くと思います。そう書いて下さいましたね。嬉しく又、勿体ないお言葉です。お願いします。私は、もうすぐ70歳、70代が私を呼びます。でも、いつもまって、今一人の過ぎし昔よりも又、澄みきった空から、途中のない暗い暗い佐田岬の海の底へなげこまれて、故郷の海は暖かきもの、そう思ってましたか、故郷の海でも冷たい事初めて知りました。一人っ子の私は、疑うと言うこと知りませんでした。でも、そうであったからこそ、今皆さんとのつながりが、この老人の命の綱のような、どうそ手を引いて下さいね。書き込みは、ボケ封じにもなり頭の運動とつくづく、パソコンに出会えた事に感謝の日々です。娘たちとも、会話膨らんで、ふくらんで、いい親子関係してます。
    3月30日までの私は、もう自分としては、娘たちにするだけのことはした。今が一番いい時期、私の一番大好きなお父さんお母さん、つれにきて、今だったら娘にお金の迷惑もかけてない、しもの世話もさせてないと、祈るような日々だったんです。でも、3月31日からというか、あの一冊の心のこもった赤いノートを覗いてからは、生きたいに、かわりました。これも弱気になっている私に、両親が皆さんと、出会えるプレゼントなのでは?生かされてはりきって、夢のような日々に感謝です。愛媛へ来て下さった皆さん、また、私を私を支えてくださいます皆さん心からありがとうの言葉ここへかきしるします。イーサンごめんながくなって、まだ、寒さきびしいと思います。お風邪ひきませんよう祈ってます。
    桑山さんも、もう帰ってきます。明子さんも、疲れてるでしょうね。おばちゃん、先日大分で会ったからでしょうか。ながかったよ。まちくたびれました。今の桑山さんは待っててくれる多くの人にかこまれていい時期がきましたね。と心からおもいます。パソコン教室のしまるじかんです。又の、ステージお願いします。

  18. 待って、待って治安の悪い所でしょう?心配しました。
    お帰りなさい。ドクトルK、aKiちゃんもお帰りなさい。大分で会ったからでしょうね。人恋しく待つって、こんな事なのでしょうね。ブログを始めるまでは、こんな経験本当に知りませんでした。心臓、血圧に悪いですね。繰り返し繰り返しで一歩づつ、ぼっぼつさせて頂きます。つくずく年を感じます。しかし、おばちゃん今までの自分は、すっかり卒業しました。人が感じてくれます。精神科の先生、私が一番相談したかったかも?さらりと卒業です。良かったです。私の心を救って下さったのは先生の初愛媛公演の時お越し下さいました方々の心あるお手紙や声の便りです。心が凍りついていて自分自身こんな日があるなんて思いませんでした。ありがとうございます。本当に、本当に嬉しく心の底からお礼をもうしあげます。

  19. 初めまして。おばちゃんで~す。何時も書き込み嬉しく拝見させて頂いております。お心のこもった言葉の一つひとつに手を合わせます。今日は私の現在住んでいる八幡浜の事をすこしお話しましょう。ここは、九州へ行く玄関口にあります。
    八幡浜から九州の別府へは2時間30分、又九州の臼杵へは2時間20分フェリーで行ったり来たりの親戚のような隣町そういう位置にあります。そして、別府へは、片道2620円、臼杵へは、片道1950円、八幡浜からの日帰りコースまた、遠出もできます。おばちやんは、旅友と月、1くらい出掛けます。それが、唯一の楽しみです。九州は、別府、阿蘇、湯布院日本一の大吊橋、ゆっくり観光もして、温泉にもゆったり心までほぐしてくれます。おばちゃんは、借家に居ますが、雑魚寝でよかったら何時でもいらして下さい。又の機会にコースを変えてお知らせします。ステージに縁のある方の道案内をさせて頂きす。八幡浜市は、人40952人です。
    魚の町、みかんのまちです。踊りで、てやてやというのがあります。子供、又企業、団体などで競い合います。一口で言いますと高知のよさこいに似ています。衣装など工夫して,私達に目の正月の楽しも頂ます。美味しい魚食べに来て下さい。なかちゃんママ、又ステージに縁のある方、案内させていただきます。今日の八幡浜は、寒いです。おばちゃんは、あつがりの、寒がりです。そちらは、雪ですか?
    もう少しで春ですね。皆さんにも私にも良い事あるといいですね。明日という春に夢をのせて・・・

  20. うれしぃです!お会いしたこともないのにお誘いいただけるなんて。やっぱり地球のステージ!やっぱり港屋のおばちゃん!
    いいですねぇ~。皆でおばちゃんのお家にお泊りしてワイワイお喋りして、その上温泉三昧!?
    ここ茨城県は残念ながら温泉に恵まれていませんが、温暖な気候に恵まれているので果物,野菜,お米 など農作物に恵まれ、さらに太平洋に面しているのでおいしいお魚も食べられます。大きな災害に見舞われることもなく、とっても平和です。平和過ぎて平和ボケ気味・・・。水戸市にある日本三名園の一つ偕楽園では、梅の花、観梅が有名ですが、もう蕾が膨らんで春が近いことを教えてくれています。
    おばちゃん、いつかきっと会えますよね。

  21. 桑山先生の地球のステージを、こよなく愛する1ファンだった。何時でも何処でもこれからは風の便りとなって飛んできてくれると信じている。心の眼を見開いて又耳を澄ませて音をひろっていきたいと思う。そしてあの澄みきった声、空にたとえれば日本晴れだ。また谷までも海の底の底までも響いて届いてくれそうな男の俺の心までゆさぶった。人に誘われての出会いであったが福岡にも行った。今テレビから流れくる様々な事、親も子も何かが壊れてくる現状の中、だからこそステージに俺はのめり込んだのであろう。つくづくそう思う。だからブログへの書き込みもやらせてもらった。そこから俺自身気づかなかっ面も多々あった。緩やかな言葉のすべり、澄みきった歌声、働くという汗の味、改めて考える事を教えてもらった。好い出会いであった。
    俺自身、心の遊び所に欠けていたように思う。
    桑山先生が学生の頃、日本一周の旅に出たという。俺も2月で定年だ。その時、もう一度
    人生という道のりを改めて、考えて見る時期にさしかかったと思う。親の凛とした後ろ姿を心に留め置きいざ、出発だ。ブログにもよく書き込ませて貰ったがひとまず卒業だ。
    旅の途中でステージに出会える事願う。ブログの反省もある。もろもろを含め歩き遍路の心境になり、これからの1ステップにしたい。昔、上りの汽車に乗るはずだったのにこの俺は下りに乗ってしまった。すべて過去だ。これからの人生にも何が道を防ぐかもしれない何があっても動じない心を育てる旅。何時か又出逢える。俺の母というか日本の母であろう姿を書こう。母すべての母にこうであってほしいという願いを込めて。・・・
    母がまだ手を振っている。バックミラーに映る姿が小さくなっていく。
    私は乱れる心を振り切るようにアクセルを踏んだ。年老いた母を一人残したまま帰路に着くのは辛い。また、すぐ会えるのだけれども別れた後の静けさがたまらないと母は泣く。
    そのたびに親への侘びと感謝が交差する。
    親は、身を粉にして働いている。その思いが通じないはずがない。
    親に愛された記憶こそ、子供の宝なのであり、その想い出があれば人はいかようにも生きられる。
    冷たき手、握ってわびる親不孝。
    うたた寝も、叱る人なき、寒さかな。
    地球のステージに乾杯

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