日本語教室の20年

今から20年ほど前。僕は山形県内の外国人の定住プログラムに関わっていました。

 IVY(国際ボランティアセンター山形)という団体を仲間と立ち上げ、主に山形県内在住外国人の支援を行っていたのですが、その中で大蔵村の日本語教室を主に担当し、上山の日本語教室や村山の日本語教室に関わっていました。それが当時の僕にとってできる「世界との関わり」の一つの具体形でもあったのです。
 その一つ、村山日本語教室(山形県村山市)が今日20周年記念ということで、村山市と共に呼んでくださったのです。その挨拶に立ってくれたのが黒沼幸善(へんすん)さんという韓国からいらっしゃった女性でした。日本語教室の代表です。
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 もう20年来の知り合いですが、ますますその日本語に磨きがかかり、誰もが唸る見事な日本語のあいさつを頂きました。そこには周囲への感謝、そして自分の韓国人としてのアイデンティティの大切さが盛り込まれていました。会ったときから決して日本語名ではなく、
「へんすん(幸善)と呼んでくださいね。」
と言っていた誇らしき彼女。日本に暮らして23年、3人の子どもたちを育て上げたタフな女性です。
 こうして、むかし自分なりに遮二無二がんばっていた時代の人たちと出会うと初心に戻り、山形県という枠の中で精一杯見て見ぬふりはしないようにしようとしていた自分を思い出しました。今ではIVYからは桑山という存在はまるでなかったかのように扱われていますが、それでも必死に「山形で何ができるか」という視点を守ろうとしていた時代の「友人たち」とこうして出逢うこともできて嬉しかったです。
 同じ村山に暮らしてもう25年になる柴田マルセリータさんというフィリピン人女性とも再会できました。
「せんせ、息子たちももう26歳と23歳よ。旦那さんは亡くなったわ。今は義理の父母の介護で大変なのよ~。」
 苦労の中にも明るさをにじませながら、マルちゃんは語って涙ぐんでいました。
「この人たちをしっかりと支えたいと思っていた自分」
にまたで逢うことが出来ました。
 そして心優しき山形県人はいろんなお土産を持たせてくれます。自慢のリンゴもそうでしたが、その中で光っていたのがこの「似顔絵」のプレゼントです。
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 これまで幾多のプレゼントを頂いてきましたが、似顔絵のプレゼントは初めてでした。
 似てるから、すごいですよね。
 そうして、山形の夜が更けていきました。
 ここを離れて宮城に拠点を移して今日、11月2日で丸3年が過ぎました。離れてようやくわかる、山形の良さ。ますます山形好きになっている自分がまた、そこにいました。
桑山紀彦

日本語教室の20年」への5件のフィードバック

  1. 宮城、山形、福岡…
    パレスチナでもカンボジアでも
    まあるい地球、どこに居ても繋がってますよね(^^♪
    24日、待ってます!!
    似顔絵にてる~ヽ(^o^)丿

  2. ご主人が亡くなられても、しっかり介護されるなんて、えらすぎます。
    今日、東京で うまいもん甲子園がありました。宮城の閖上の農業高校が出ていたので行ってきました。どうも テレビで放送されたらしく長蛇の列でした。閖中出身の生徒さんもいましたよ。私は山口県出身なので、中四国代表の松江農林高校の先生と生徒さんとたくさん話してきました。地区代表の9校の生徒さんみんな一生懸命取り組んでました。みんか買って食べました。どれもこれも美味しかったです。

  3. 昨日のステージを 会場で拝見しました

    涙しながら見ていらっしゃる方がいました。私もまた、何度見ても感動して泣いてしまいます。
    「やっぱり子供逹にはみせなきゃ!」
    と言う思いが強くなりました。
    私の周りには、他国からこの地に嫁がれて頑張っているお母さんがたくさんいます。
    子供逹に、アジアへの本当の理解を持って貰うためにも
    この地域で実現させなきゃならないのではないかと思いました。

  4. 見て見ぬふりをしないで実行して来た一つ一つの実行の積み重ね。全部が生きてすべてが現在の礎になっていますね。
    何よりも、そこで培われた人と人のつながりの強さが貴重なものになっていると思います。

  5. 自分が関わって立ち上げた団体が今も活動を続けているのはうれしいことですね。
    志を持って長年続けるって大変なことだと思います。
    人と人がつながるって、心と心がつながるっていうことですよね。

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