11月3日(土)、名古屋のステージが終わって中部国際空港から石橋優子と共に沖縄、那覇に飛んだ。那覇空港には離島を飛び回る山本機長が待っていてくれた。茨城、みの~れの山本かあさんのご主人だ。11月だけど半袖での登場だった。
機長には沖縄滞在中すごくお世話になりながら、浦添市の「浦添グスク」に向かった。今日は野外ステージだ。
着いたが、そこは第一部の盛り上がりの頂点、参加者はかちゃ~し~で盛り上がりまくっている。まさに沖縄のノリそのものだ。「これはお呼びでない?」そう思ってびびってしまった。けれどせっかく呼ばれたのだ、がんばってやるしかない。しかし1部が終わって我が「第2部」に至ったが、誰も準備してくれる気配がない。仕方なく自分で机、イスを見つけ配置、器材をセットするが、誰も注目していないことを背中で感じていた。
「これは本当にお呼びでないかもしれない」
背筋が寒くなった。でも、せっかく来たのだ、やるしかない。
ふと気付くとモニターがない。今日はモニターなしか?仕方なく、今日の音響担当の人にお願いすると大きなYAMAHAのモニターが運ばれてきたが、今度は接続する4ピンのコードがないとのこと。仕方なくサイドに立てられているモニターを、足に転がすモニターにさせてもらった。万事が窮す。まるでフィリピン人と仕事しているようだった。
いよいよ始まったけど、第一部で盛り上がりまくった子どもたちが周りで騒いでいる。席には80人ほどの人が聴いてくれているが、一向に注意に行く様子はない。野外ステージだから通りすがりの人もいるだろう。我慢しつづけたけど、一言言わせてもらった。
「あの、確かに本州から来た僕が、この沖縄に何が言えるかどうかは判りませんが、少なくとも今日は浦添の子どもたちに、このステージを観て欲しくて、8月には取材にまで入って創った映像も用意してきました。第一部で盛り上がりまくってその余韻もさめやらぬこともわかりますけど、第二部もあるという予定なので、どうかもう少し聞いてくれませんか?」
一番前に座っていた大学生らしい若者が、すごいスピードで駆け出し子どもたちの注意にあたった。
「これは少しいけるかもしれない」
と思った。
そして80分の超短縮版にしたけど、最後はすべて沖縄県の映像で創った「故郷篇」を映し出し「ねがい」を歌った。拍手が来た。終演。
撤収を黙々とした。
一人の青年が子どもを連れてやってきた。
「あの、今日はいいステージ見せてもらいました」
「あ、ありがとうございます。お父さんは浦添の人ですか?」
「やっぱりな~、この子といるといつも親父に間違えられるんですよ」
「そりゃあ、すみません」
「僕は今回のこの芸術祭の舞台総監督です。この“地球のステージ”を観て、考えさせられてしまいましたよ。僕たちが第一部でやった歌や演奏、踊りなんて、平和を願うなんてことを言いながら、ぜんぜん実が伴っていない、空っぽのものだと思いました。僕たちは、過去の戦争のことばかりを取り上げ、それを振り返りながら、いつも歌って、演奏して、そして踊ってきただけだ。そんなものに意味はないと感じてしまいました。“地球のステージ”のような現在の紛争や、これからの平和を直接考える、そういった思考が僕たちに欠けていたことを知りました。今日はありがとうございました」
正直な若者。
さぞ悔しかったことでしょう。でもあなたが、そう言ってくれたことで、辛かった沖縄の野外ステージに、がぜん意味が出てきた。
「お呼びでないか」
と思いつづけ、歌いつづけたけど、少なくとも、この芸術祭を仕切る長たる若者が、自己内省を得たことが、唯一の救いだった。
ステージが終わり、機長、石橋とひっそりと打ち上げに行った。
「僕はこの沖縄の空を飛び、20年になりますよ。気長に付き合ってやってください。沖縄の人々とは・・・。」
これからも、まだ沖縄との葛藤は続くのだろうか。
いろんな ひとたちが いるんやねぇ~
はぁ~。浦添市のみなさんはもったいないことをしましたねぇ~。せっかくの地球のステージを見ないでしまう(子供たちに見せることができなかった)なんて・・・
この時期は地球のステージの日程がつまっているので、来てもらいたくても、来てもらえなくて、がっかりしている人たちはたくさんいるのではないでしょうか?本当にもったいないですよ。
地球のステージを楽しみに出かけた者として、
今回のことは、本当に恥ずかしく、残念に思いました。
イベントの告知もほとんどされていなくて、
確かにメインは第1部にあったように思います。
浦添市外から駆けつけた私たちも、居場所がないような
感覚がありました。
でも、機長さんがおっしゃるように、沖縄とは気長に
おつきあいいただけることを、心から願っております。
また沖縄にいらして下さい。お待ちしています。